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コプト語とコプト文字

 投稿者:Miranda Welrech  投稿日:2017年 4月28日(金)10時15分32秒
返信・引用
 
コプト語と云うのは、エジプト語のことで、紀元前後、大体、紀元前数世
紀から、紀元後数世紀のあいだ、エジプトで使われていた言語である。コ
プト語は死語ではなく、現在もその末裔の言語をエジプトで使用している
人たちがいる。これはコプト・キリスト教会で使われる言葉で、アラブ語
の大海のなかの小島のような存在になっている。

エジプト語は、昔は「ハム語族」と呼ばれていた語族に属していたが、そ
の後、「セム語族」のなかの言語に分類されている。セムとかハムという
のは、大洪水を箱船に乗って生き延びたノアの息子たちの名で、結局、中
近東の古代語のグループが、ハムとかセムの名で呼ばれている訳である。
中近東の古代語には、印欧語族のものがあり、それと、所属不明な、消え
去った言語がある。

遙かな昔に、荒井献の『原始キリスト教とグノーシス主義』を読んでいる
と、どうも、『ナグ・ハマディ文書』のなかの写本において、コプト語の
テクストのなかに、ギリシア語の単語が書き込まれているように読めるの
で、不可解だというか、何がどうなっているのか、疑問を抱いたことがあ
る。荒井献は、サヒディック方言のコプト語が自由に読め、『ナグ・ハマ
ディ文書』の写本については、おそらく、ファクシミリ版で実際に写本で
は、どう書かれているのか、見て、理解した上で述べているので、何の不
思議なこともなかったのかも知れないが、コプト語のテクストの見本でも
写真版で本についていれば、このときに感じた疑問は、即座に解消したの
だが、そういうものはついていなかった。

『ナグ・ハマディ文書』の写本は、元はギリシア語で書かれていたテクス
トを、コプト語に翻訳し、コプト語のテクストを写本にしたものである。
コプト語は印欧語ではなく、セム語族に属する、紀元前後のエジプト語で
ある。こういう知識前提があると、コプト語のテクストのなかに、ギリシ
ア語の単語が入っているというのは、非常に不思議なことに思えた。
1980年代、1990年代だと、わたしの個人的な知識範囲では、「セ
ム語」としては、ヘブライ語、アラブ語、そして古代エジプト語が、どう
いう文字で表現されていて、どういう文法の特徴を持っているのか、ごく
ごく初歩的な知識はあったが、詳細までは知らなかった(いまでも、よく
知らないが)。1980年代だと、少なくと情報資料として、ヘブライ語
とアラブ語は、文法書と辞書を持っていたし、古代エジプト語は、文法書
兼辞書になる、かなり大きな参考書を持っていた。

ヘブライ語のアルファベットは、かなり覚えやすく、区別することができ
たが、アラブ語のアルファベットは、人工的に字形を整理した結果だと思
うが、非常に覚えにくかった。いや、覚えても、すぐに忘れてしまうので、
迷惑な言語だと思った。アラブ語のアルファベットは、三回記憶して三回
忘れたので、四回目は、覚え直すことはもうやめた。アラブ語のアルファ
ベットが記憶しにくいのは、元々のフェニキア文字からすると、違った字
形であった文字を、形を省略することで、まったく同じ字形にして、これ
を区別するのに、子音点という、点(ドット)を、子音文字の上とか下に
付けるか付けないかで区別したので、全然異なる子音が、同じ字形をして
いると云うことになって、識別の差異性が曖昧になっている。

例えば、Rの子音を表現するラーと、Zの子音を表現するザーイが、アラ
ビア文字では、同じ文字になる。ラーの上にドットを一個付けると、これ
が、ザーイの子音の文字になるが、フェニキア文字では、違った字形の文
字であった。ギリシア文字でも別の字形だし、ヘブライ文字でも、字形は
違っている。ラーに当たるヘブライ文字はレーシュであり、ザーイに当た
るヘブライ文字はザインで、レーシュとザインは、確かに字形が似ている。
しかし、似ているということで、実際には違った字形の文字である。とこ
ろが、アラビア文字では、ラーとザーイは,完全に同じ字形の文字で、点
があるかないかで、文字を区別する。一見シンプルで、区別しやすく思え
るが、実際は、覚えにくく、区別しにくい。ひらがなは、かなり複雑な字
形をしていて、覚えにくいとも言えるが、一度覚えると、忘れると云うこ
とは、あまりない。個々の字形が冗長性を持っているので、それだけ、識
別性のための情報エントロピーが低くなっている。アラビア文字は、印刷
字形において、すでに、文字識別の情報エントロピーが非常に高い(情報
エントロピーは、大きければ大きいほど、混沌性が増す。エントロピー最
大とは、ランダムということで、いかなる識別も不能になる)。
とはいえ、どんな文字でも、筆記体があって、慣用の簡略筆記体があると、
情報エントロピーは高くなってくる。

エジプト語は、それを表記する文字としては、象形文字(神聖文字・神聖
象形文字)、神官文字、民衆文字の三種類が歴史的に並列してあったが、
この順序で語形がシンプルに抽象的になってくる。また、古代エジプトで
使われていた文字と、中エジプト、新エジプト、そして末期時代や、ギリ
シア人の王朝であるプトレマイオス王朝で使われていたエジプト文字では、
時代が下るにつれ、使用される文字が段々少なくなってきて、プトレマイ
オス朝だと、それは表音文字になり、更にアルファベットになっている。
ロゼッタ石に刻まれていたエジプト語の文字は、形の上では、古代の神聖
象形文字と同じであるが、これはアルファベットになっている。アルファ
ベットになっていた故、固有名詞を比較すると、個々の象形文字の音価が
判明した。

紀元前一千年代や、それより古い時代に使われていたエジプトの文字は、
非常に煩瑣であるが、表意文字であって表音文字であり、漢字に似た所が
あるが、漢字よりも柔軟性が高い。しかし、神官文字や民衆文字だと、記
号文字という感じがするが、象形文字だと、文字通り、「絵文字」に見え
る。(象形文字は幾つぐらいあるのかというと、昔、古代エジプト語の文
法書兼辞書で、文字一覧があるので、そこで数えたのでは、5,6千文字
だったような記憶があるが、一文字づつ数えたのではなく、このページに
ある文字が幾つで、そういうページが三十ページくらいであるので、全体
で何文字ぐらいというような概算見積もりだったと思う。あるいは、文字
に番号が振られていたような気もするが、はっきりしない)。

ところで、コプト語の話で始まっていたのであった。コプト語というのは、
紀元以降のエジプト語と考えてよく、コプト文字は、コプト語を表現する
ために、発明された文字である。発明されたと云っても、ギリシア語アル
ファベットを元にしていて、コプト語にある音で、ギリシア文字では、そ
れを表現する文字がないとき、コプト文字に固有な文字を造った。しかし、
文字としては、ギリシア文字の変形のような感じであるので、コプト文字
のテクストのなかに、ギリシア文字が入っていても、それほど不自然な感
じはしない。
『ナグ・ハマディ文書』の写本は、コプト語で書かれていて、コプト文字
で記されているが、そのなかにギリシア語の単語が、ギリシア文字で書か
れて、含まれていると云うことである。

_ Mirandaris


ウェブサイトは次にあります:

http://mirandaris.in.coocan.jp/   Khoora Mirandaas(コーラー・ミランダース)
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/   Khoora Sophiaas(コーラー・ソピアース)

 
 

Vedanta Sara

 投稿者:Miranda Welrech  投稿日:2017年 4月24日(月)06時12分6秒
返信・引用
 
タイトルが、「Vedanta Sara」で、ラテン文字になっているが、これは、
日本語でカタカナで書くと、「ヴェーダーンタ・サーラ」となる。元々、
サンスクリット語かヒンディー語である。

平楽寺書店から、1962年に中村元訳注で、原文・翻訳対照で出版され
た本が元々、わたしの知っている本である。

中村元訳注『原文対訳 ヴェーダーンタ・サーラ』というような題の本とし
て、日本で出版されていた。「原文対訳」というのは、サンスクリットと
思われる原文が印刷されていて、その日本語訳と訳注を中村元先生が行っ
ている。

何故この本のことが急に思い出されたのか。何がきっかけだったのか。実
はわたしはこの本は持っていない。ただ、日本語訳と註記の部分を、部分
的に読んだ記憶がある。現在は、そういう言葉は使っていないが、例えば、
1979年に書いた『スターサファイヤの進化』という話では、そのなか
に、「トゥリヤ」という言葉が出てくる。トゥリヤを使わなくなったのは、
自分で何のことか意味が分からなくなったからである。

印度思想辞典などで調べると、意味が分かったのかも知れないが、昔には
インターネット等がなかった。大学の図書館に行けば簡単に調べられるこ
とでも、個人の立場では、なかなか調べることができなかった。専門的な
書籍は、個人が趣味で購入するには、あまりにも高価であった。つまり、
「トゥリヤ」という言葉・概念は、中村元先生の『原文対訳ヴェーダーン
タ・サーラ』のなかに説明があった言葉で、1979年頃には、まだ、そ
れがどういう概念か記憶があって分かっていた。しかし、使わないでいる
と、段々記憶が薄れ、本を読み直すこともできないので、言葉は識ってい
るが、どういう意味だったのか、あやふやになって、使えなくなったので
ある。

記憶であるが、『ヴェーダーンタ・サーラ』は、ヴェーダーンタ思想につ
いての入門書的概説書で、他のインド哲学関連の本では、あまり聞いたこ
とがないような、整理された内容が記されていた。「自我の四位」という
概念があり、そのなかの一つが、トゥリヤと呼ばれる状態であるが、この
「四位」が、実に色々な事柄や概念などに適用されている。例えば、「ヒ
ラニヤ・ガルバ」というのは、『リグ・ヴェーダ』に出てくる、「黄金の
胎児」という意味の一種のアートマンの状態であるが、ヒラニア・ガルバ
も、四位の一つとして出て来ていた。(この「四位」は、キリスト教の三
位一体の「三位」とは何の関係もない概念である)。

昨日から今日にかけて、この本を思い出したので、検索で調べて見ると、
まず、古書として、ある通販サイトで、10万円の値がついている(ただ
し、売り切れであるが)。アマゾンJPにも古書として登録されているが、
マーケットプレースでの出品はない。別のサイトで調べると、古書店、5,
6店舗で販売していることが分かったが、最安値が、一万円で、状態説明
を読むと、何かぼろぼろのような状態である。2万円から4万5千円ぐら
いまで販売されていたが、4万5千円でも、アマゾン・マーケットプレー
スの評価で云う、「可」の状態で、ともかく状態がよくない。

中村元先生の訳注の対照本は、あまりに高価なのと、2万円、4万円出し
ても、いたんだ本しかないようなので、これは諦めるしかないと思った。
もしどうしても、見たい場合は、大学図書館が所蔵しているので、そこか
ら借り出せば閲覧はできる。

もう少し楽な方法はないのかと思った。中村元先生の本が稀覯書になって
いるのはサンスクリットとの対照本であるからであるが、訳だけのものは
ないのだろうかと考えた。あるのではないかとも思うが、しかし、サンス
クリット(多分)との対照本というのは、ヴェーダーンタ思想を原文で学
び研究しようという学生のために、こういう本を出しているので、入門書
でもあるが、高度な学術書でもある。つまり、ヴェーダやウパニシャッド
に較べると、翻訳されている可能性はかなり低いと思われる。需要がそも
そもないと言える。この本を読む必要があるのは、サンスクリットが読め
るような人で、そういう人は翻訳を必要としないのである。

しかし、英語の翻訳ならあるかも知れないと思った。オットー・ヴァイニ
ンゲルの『性と性格』も、いま中古書として売られているのは、8千円か
ら1万円以上の値がついている。こんな本に1万円もお金を出す気にはと
てもなれない。そこで、英語の翻訳を注文したが、来月か、再来月、つま
り、6月頃に届くはずであるが、それまで生きているのだろうか(そんな
ことを、最近よく考える)。

『ヴェーダーンタ・サーラ』も、英語の翻訳があるのではないのかと思っ
た。少なくとも、日本語の翻訳はアマゾンにはなかった。アマゾンには、
中村元先生の本が出てくる。他にもあるなら、それが出てくるはずである。
そこで、日本語版アマゾンは諦めて、amazon.comで検索すると、次の本が
出てくる:

https://www.amazon.com/dp/8175051108/

この本は、わたしが検索したときには、一冊在庫があって、プライスが、
約4ドルだった。4ドルは安いので、オーダーまで進めると、何と、配送
と手数料が900円ぐらいかかり、合計1,350円だという。来月の半
ば頃までに届くようであるが、不確かである。(いまも、マーケット・プ
レースでの在庫は、中古・新本とあるが、わたしが注文したのはアマゾン
・コムで、ここなら発送はまず確実だと思う)。

ところで、この本にはレビューが一つあり、評価が☆2である。かなり低
い評価であるが、本を注文した後で、レビューを読んだ。あまり参考にな
らない。どうもこの本は、インドで印刷出版された本のようで、特殊なイ
ンクが使われていて、あまりに酷いの、苦情を言ったら、別の本と交換し
てくれたが、その本はもっと凄い酷い本で、部屋においていると、発狂し
そうになる(とは云っていないが、結構長いレビューであるが、3分の2
か、4分の3までが、インクのにおいが酷いというのと、製本段階での頁
の合わせ方と本の裁断が無茶苦茶だとか、内容に関係のない、不満が書き
連ねられている。しかし、インドの本がすべて、こんな酷いインクのにお
いがする訳でもないようである)。内容についても書かれているが、過去
にインド思想関連の本を読んだことがあるが、この本の書いていることは、
理解が難しい、訳が分からないというような感想を述べている。(確かに
分からないのではないかと思う。また、1931年の翻訳なので、英語自
体が、いまと違っているのかも知れない。翻訳者がインド人であるという
のも、難しい理由かも知れない)。

このレビューを読んだ後、調べると、もっと新しい出版の本がある。

https://www.amazon.com/dp/1110330995/

2009年の出版であるが、本の説明の冒頭に、1923年より古い、歴
史的書籍のリプロダクションだと書かれている。リプロダクションという
のは、スキャンか焼き付けコピーか、方法は不明だが、昔の本を、複写し
て、印刷したという意味で、新しくテキストを翻訳して、タイプセットし
たのではない。リプロダクションは、あまり望ましくない。18世紀の貴
族で、ルイ14世の弟である、オルレアン公爵の寵臣であったアベ・ド・
ショワジの自伝の一部のリプロダクション版を持っているが、文字が潰れ
たり、消えたり、印刷が不自然であったり、かなり酷い。

(もう一冊、Vedanta-Sara というタイトルの英語の本があるが、つまり、

Vedanta-Sara Or Essence Of The Vedanta: An Introduction Into The
Vedanta Philosophy (1845)
Aug 26, 2009 by Sadananda Parivrajakacharya and Edward Roer

これは、元の本は、1845年の出版のように思える。中村元先生の対照
本の元のテクストは、サダーナンダという人のものであるが、上の本は確
かにサダーナンダという名になっているが、インクが酷いにおいで、毒が
あるとかレビュアーが云っている本の著者は、Sadananda Yogindraで、英
訳もインド人が行っているが、上の本は、Yogindraではない。また、エド
ワード・ロアは、翻訳者ではないかと思えるが、2009年版のリプロダ
クションの本の関係者に思える)。

1931年の翻訳だとか、1923年以前の歴史的書籍からのリプロダク
ションとか、ろくなものがないが、1931年翻訳の本を待つことにしよ
う。しかし、30年以上忘れていた本を、いま急に思い出すのは何が引き
金だったのだろうか。冷静に考えると、きっかけを思い出すかも知れない
が、いまは、分からない。

--------------------
添付画像:

1:上の画像:毒性インクで印刷されているとか云う、1931年の本
2:下の画像:Edward Roer の名が出てくる(多分)別の本

Sadananda の Vedanta-sara は、130頁ほどあるが、下の表紙の本は、
40頁ほどかしかない。中村元先生の訳注本は、182頁なので、40頁
しかない本は異なると思う。

_ Miranda

 

「善と惡」

 投稿者:Miranda Welrech  投稿日:2017年 4月22日(土)09時27分7秒
返信・引用
 
グノーシス主義における「善と惡」とは、そもそも何であるのだ
ろうか。これまで、かなり抽象的かつ一般論的な説明を考えてい
たが、「グノーシス主義基本用語集」のなかに、「善と悪」とい
う項目を立てて、それについて、グノーシスはどのように解釈す
るのか、わたしと Marie RA.で考えてみた。

まず、中世哲学における、純粋形相としての神は、善を必然的な
本性として備えている。というか、神を神とする本質が、実は、
善にして真なる純粋形相の実在体である。神とは、善の神で、定
立されているので、神は善かどうかという質問は意味をなさない。

しかし、どうも不自然というか、何かおかしいと思える。
そこで、古代ギリシアにおいて、神とは何であったのか、人間は
何によって人間たる本質を規定されているのか考えてみた。古代
ギリシアにおいては、神が神であるのは、「不死である」からで
ある。そして人が人なのは、「不死ではない・アタナトス」であ
るからである。

ここで、近代・現代において起こって来たのが、「死はまた善で
ある」という考えである。しかし、古代ギリシアをはじめ、古代
世界においては、どこにも、そういう考えはなかったのではない
のか、という事態の認識というか、どうもそれが妥当に思えると
いうことになった。

(ソークラテースは、プラトーンが伝える所では、「死もまた善
である」というようなことを述べていたようであるが、ソークラ
テースの死後の世界というのは、すでに亡くなった過去の賢人が
多数いて、その人たちと色々と話ができ、議論できることを楽し
みにしているとか云う死後の世界なので、現代人の考える、「意
識の虚無化」としての「死」とは大分違っている)。

もう少し詳しく考えてみると、未開人の思惟とか、シャーマニズ
ムの死生観などでは、死は「不自然」だとされている。不自然だ
ということは、人間は本来不死であるということである。ところ
が、古代ギリシアでは、神々は不死であるが、人間は「死すべき
定めにある」。

それにもかかわらず、生前に善であった人などは、神の祝福等に
よって、死後甦って、あるいは死ぬこと無く、永遠の浄福の国に
永遠に住まって、幸福を生きるというような考えがある。

キリスト教は、人間は死ぬが、信仰ある者は、永遠の命に与って
天国に行き、永遠の浄福に生きると述べている。仏教も、死は無
ではないと云う。

これは、「死の事実性」に対する人間の抵抗の表現であるのだろ
うか。そのようにも思えるが、他方、人間は本来、不死であった
と云う思想が、世界中に存在する。この場合、肉体が不死である
というよりも、人間の精神の不死性、それによって、肉体の不死
性も支持されるような不死性のことである。従って、肉体が死ぬ
という「事実性」は、精神の不死性の不在の証明にはならない。

このように考えながら書いていると、人間は本来不死であって、
死すべき存在だということが、偽の世界での虚偽ではないのか、
という考えに思い至った。神の存在は、内在する神によって、保
証されている。内在する神の発見、神への覚醒が、神の存在の確
信をもたらすのである。

そうすると、グノーシスの覚醒・認識というものと、内在する神
への覚醒、神の発見は、同じ事だということになる。

キリスト教は、数え切れないほどの条件を付けて、天国に入るの
は難しい、天国への扉は狭いのであると、意図的に、天国に入る
ことの難しさを条件付けているが、天国に入れないのなら、何の
ための神への信仰なのか。

神は神聖であるが故、人は神の前、跪いて、神を拝むのか。どう
も違うと思える。神とは、「有り難い者」だとも云う。また、キ
リスト教における、神が天国での永遠の命を与えてくれる条件と
いうものが余りに厳しいものである場合、誰もキリスト教など信
仰しなくなるとも思える。

ヨハネス・パウロス2世は、その死の直前に、「神様、どうか、
あなたの御国にわたくしを入れてください」と祈ったと伝わって
いるが、ローマ教皇でさえ、天国に行けるかどうか、自信がない
なら、信仰心薄い、人間はすべて、天国などとは無縁になる。教
皇は、神は愛の神であるので、天国にあなたたちすべてを迎えて
くださる。わたしも、迎えてくださると、わたしは信じている。
わたしが教皇という位にあった為ではなく、神様に祈ったことが
あるということで、天国に入ることを赦してくださるのである。
神様は、あたたたちができるだけ多く、天国に還ることを望んで
おられる。わたしは、先に行き、あなたがたがやってくるのを天
国で待っていよう。

……このように、ヨハネス・パウロス2世は、何故述べなかった
のだろうか。あるいは教会の信徒に向かっては述べていたのだろ
うか。

ともあれ、Khoora Sophiaas の「グノーシス主義基本用語衆」に
十数年ぶりぐらいにか、新しい項目「善と悪」を登録しました。
他の説明と違い、わたしたち個人の考えで記しているので、何か
おかしいかも知れないが、ここに今日書き記したことが、グノー
シスの覚醒・認識だとわたしたちは思います。

_ Miranda et Marie RA.
 

現象としての三次元音場

 投稿者:Miranda  投稿日:2017年 4月22日(土)01時04分54秒
返信・引用 編集済
 
特に意識した訳でもないが、メディア・プレイヤーで流している背景音楽
を、偶々、ファイルとしてあった、ピンク・フロイドの『シッラス・マイ
ナー(サイラス・マイナー)』にしてみた。それ以前は、普段流している、
Play-list-1 という、自分でアレンジしたMP3音楽集であったが、丁度
『映画ロメオとジュリエットのテーマ曲』というか、1968年か69年
の映画の作中歌である、シェイクスピアの「若さとは何であろうか」が終
わって、次の曲へと自動的に切り替わるときに、「シッラス・マイナー」
のMP3をクリックしていた。

この曲は、かなり聞いたはずで、どういう順序で効果曲が出てくるのか、
歌と音の展開が記憶に刻まれている。そういう訳で、最初に、何かの小鳥
の囀りの効果音が出てくるのは識っていたはずである。しかし、奇妙な位
置から、小鳥の囀りのような音が響いてきたとき、意外感を覚えた。右手
上というか、ディスプレイとは離れた、部屋の右手上方のどこかから、天
井の上辺りからか、小鳥の幽かな声が聞こえてくる。
最初、何だろうかと思い、次のとき、「シッラス・マイナー」は、鳥の囀
りの効果音から始まると云うことを思い出した。意外感は、予想していな
かった空間位置から、その囀り音が響いて来たことである。

ヘッドフォーンで聞くとはっきり分かるが、歌が終わった後、残り半分以
上が、効果音を含む音楽で、音の空間が、周囲で旋回しながら、深みを増
して行き、どこか分からない荘厳な空間へと沈んでいくというか、自分自
身の存在が、この音の世界に落ち込んで行く、あるいは、音のフェードア
ウトと共に、別世界へと消え去るような効果になることことは、識ってい
る。
しかし、今回はヘッドフォーンなど装着していない。PCのディスプレイ
に付いている、かなり音質的に貧弱な、小型外部スピーカー二個から流れ
る音楽を聴いていた。左右に二個のスピーカーであるから、音場があると
しても、ディスプレイの方向に響いているだけで、普通、右手高い位置か
ら音が響いてくると云うことは、ありえない。また、このディスプレイの
スピーカーで聞いていた限りでは、そんな経験はなかった。

ところが、主観的に聞こえてくるのは、確かに、右手上方の遥か頭上の空
間か、または右手上方向の部屋のどこかから小鳥の囀りが響いてくる。
左右に小型スピーカー二つと云うことは、音場があっても、それは、左右
方向での広がりしかないはずである。音が、上下に移動するとか、上下で
異なった位置から響いてくると云うのは理論的にはないはずである。
しかし、ピンク・フロイドの音を、ヘッドフォーンなどで、耳を澄まして
聞いていると、音が左右に音場を造っているだけでなく、上下にも、音場
が存在することが確認できる(昔、左右上下に音場があるので、サラウン
ドでもないのに、何故、立体的に聞こえるのかと思ったことがある)。

ダミー・ヘッドを使って録音した場合、ヘッドフォーンで聞くと、音が立
体的に聞こえる。これは、頭部の存在や、耳の形状などから、ある立体角
度空間に放射される音の波に、方向による時間遅延が起こって、立体音場
が構成されるのだが、ピンク・ヒロイドは、別にダミー・ヘッドを使って
録音しているのではない。
また、小鳥の囀りのような、鮮明な高音域にある、一種の「点音源」の位
置を、立体的に制御するというのは難しいはずである。

とはいえ、どういう方法を使ってか、「点音源」の空間位置を制御してい
るとしか思えない。考えられることは、方向による音の波の時間遅延が、
音源位置を仮想的に作り出していると云うことであるが、こういう仮想的
な音源設定、あるいは立体的な音場の構成というのは、ピンク・フロイド
の独擅場だったようにも思える。
サラウンドが技術的に確立して、4スピーカーとか5スピーカー・システ
ムが出てくると、立体的な音場の構成は、かなり容易になる。
しかし、ピンク・フロイドは、サラウンドなどなかった時代に、2スピー
カー・システムにおいて、音の波の伝達、拡散、屈折、反射、減衰などを
巧みに利用して、音波の拡散時間遅延に基づいて、三次元的な仮想音場を
作っていたのだと思える。

音の空気中での伝達と減衰や拡散における物理学からすると、そういう説
明になるが、この三次元音場は、物理的に構成されているのではなく、主
観的な知覚認識における、広義の「錯覚」現象を利用しているのではない
かとも思える。物理的に、音の波の方向減衰と屈折・反射などを使って、
立体的な音を作っているのも事実だろうと思うが、もっと知覚の構造に根
ざした、現象論的な三次元知覚を構成しているのではないかと思える。
つまり、ダミー・ヘッドの場合は、主観的な知覚認識における解釈(知覚
のエンコーディングとディコーディング)の自然な機構をそのまま利用し
て、疑似三次元音場を構成するが、ピンク・フロイドは、ダミー・ヘッド
などを使うことなく、現象的な知覚認識での音の三次元的、あるいは多次
元的な空間を、仮想的に、個人の主観知覚にあって、生成していたのでは
ないかと思える。

マインド・ミュージックというのは、元々、こういうものだったとも云え
るが、伝統的には、幻覚の仮想性を利用していた。これは、現在の電子技
術的な、あるいはデジタル処理技術的な仮想電子空間での音場構成とは、
かなり生成方法が異なっている。前者は、経験的・主観的にしか了解でき
ない「幻覚作用」の仮想性を利用しているが、後者は、物理的・生理的な
構造特性に基づいて、ある意味で計算によって仮想区間を構成する(例え
ば、ダミー・ヘッドを使った録音は、物理的・生理的な構造を利用してい
る)。ピンク・フロイドの立体仮想音場は、どこにあるのかと云うと、こ
の両者の中間、あるいは両方の要素にあるとも云えるが、あるいは、両方
のテクネーに依拠しつつ、まったく異なる知覚現象の仮想宇宙を目指して
いたのかも知れない。

_ Miranda

 

『QUO VADIS - クオ・ヴァディス - 20』 最終巻

 投稿者:Miranda  投稿日:2017年 4月20日(木)06時37分37秒
返信・引用
 
『クオ・ヴァディス: Quo Vadis』という漫画がある。新谷かおる原作、
佐伯かよの画の合作であるが、これが非常に長いというか、一冊180頁
ほどで、20巻あります。大体、一冊に5話ほど入っていて、バーズのオ
ンライン・マガジンに連載していたものである。
今年の3月になって、漸く20巻が出て、これで完結です。わたしは、ア
マゾンに予約注文を入れていたのですが、17日にアマゾンから発送の連
絡があり、18日に本に手にした。

漫画単行本の出版は、大体半年ごとに一冊で、オンライン・マガジンは月
刊誌のようで、ほぼ、半年で、5話ぐらい掲載して、これを1箇月ぐらい
後に、印刷した単行本として発行するのです。一年に二冊発行と云うこと
は、20巻まで出るまでに、10年かかっていることになります。
7年前か、8年前頃に、こういう漫画があることを知り、その当時、話の
展開具合を考えて、この話は完結するとしたら20巻ぐらい必要だと思っ
た。完結まで作者は生きているだろうか(というのは失礼ですが)、また
作者よりも、わたし自身が生きて作品の完結を見ることができるのだろう
かともふと思った。

やはり、十年かかった訳で、原作と絵の二人の作者は、無事作品を仕上げ
て、最後の章まで描ききったとも言えるのです。しかし、20巻は、読み
始めて、この漫画には珍しく、退屈さを感じた。本の表紙帯に「完結」と
書かれているので、いかにこの拡散して、収拾のつkなくなった支離滅裂
な話に収拾をつけるのかと思って読み始めたのですが、作者達には、話を
収拾させる意欲が感じられなかった。
あれも、これも、と何でも投入して風呂敷を無闇に広げたため、最初から、
20巻で完結とは、おかしいのではないのかとも思っていましたが、新谷
の漫画展開の巧妙な技術には、以前に驚嘆したことがあるので、この最終
刊巻でも、一体どうするのか分からないが、それらしい「収拾・収束」が
あるだろうと期待したのですが、裏切られたという想いです。
読み始めて、面白くないのは、最後の一巻で、話を収拾させるとすると、
こういう話の進め方では、終わらないことが明らかだったからだとも言え
ます。

それでも流石に新谷かおるは、漫画の達人だとも言える。半ば以降からは、
「収拾」とは違った観点での終わり方を始めた。この終わり方は、実は、
人類滅亡、あるいは文明滅亡のカタストロフィ作品の、幾つかのある終わ
り方の一つで、いわばパターンなのですが、それでも、非常にうまく描い
ている。この部分は読んでいて、良かったが、結局、これは、19巻にわ
たり広げてきた、ある意味で、支離滅裂な、矛盾だらけの大風呂敷を、収
拾する意図も何もないということが示されているとも言える。

実際に、この20巻で完結の仕方は、これまで展開して来た様々な疑問や
謎や、矛盾などを、すべて放置して、終了を告げるという方法です。この
終了のため、大体、先行する4巻か3巻ほどで、20巻における完了に進
むための準備をしてきたことになり、最後の4,5巻を読むと、何となく、
20巻の最終巻で、話が完結した印象を与えるのかも知れない。しかし、
これまで十年のあいだ、色々な誇大妄想的で、リアリズムの欠如した、ご
都合主義の話を読んで、どのように、この話は収拾するのだろうか、すべ
ての物語は、どうやって、解き明かされるのだろうかと、期待を持って読
んで来た者としては、非常に残念な終わり方だったと言える。
確かに、20巻で完結のための準備を、4巻ほど前の辺りから始めている
が、その前に、15巻ほどの、一体どこまで話を広げるのかという、壮大
な話の発散があった訳で、これを完結させるために、更にあと20巻……
という訳にはいかないだろうと思います。話が、矛盾しすぎていて、全面
的に書き直しをしないと、話は整合的には完了しない。つまり、この大長
編というか、大河漫画は、結局、破綻したまま終了したと云うことになり
ます。
これは、収拾や完成への期待が大きかった為に、一層に、衝撃であったと
も云えます。

しかし、これはわたしの作品を構成する、構想するときの物語の造り方の
方法論に基づく判断だとも云えます。
20巻の半ば以降、特に、最後の章は、いかにも大河漫画の最後の章とい
う趣があります。どこにギャップがあるかというと、先行する十五巻に及
ぶ話に散乱させた、数々の伏線のようなものや、相互に矛盾する様々な設
定はどうなったのかということです。全体で、つまり20巻の長編漫画と
して、全体的に眺めると、作品になっていない、というのが、わたしの評
価です。しかし、終わりは、新谷+佐伯の漫画の終わり方で、よくできて
いる。

そこで、新谷の過去の長い漫画を思い出してみると、知っている漫画作品
は、この『クオ・ヴァディス』と同じ終わり方をしている。例えば、『ク
レオパトラDC』とか『砂の薔薇』なども、厳密な意味では、長編作品と
しては、完成していない。『砂の薔薇』の終わり方は、かなり見事なもの
で、いかにも「完成・完了」という感じですが、よく考えると、話がおか
しい。つまり、これも先行する十巻以上の話の展開を無視して、いきなり、
かなり無理な物語を作って「完了感」を醸成している。
そこで、思ったのが、新谷は、もともと長編作品向きの作家ではないとい
うことです。長い物語の構成やプロットを考え、それに沿って、完了に向
けて,話を展開させ、最後は、すべての事柄が収拾する、少なくとも、説
明がなくとも、中心の物語が矛盾なく完成すれば、作品はこれで完了とな
ります。
しかし、新谷は、そういう作品の造り方をしていない。幾つかの巻、ある
いは、あるまとまりのある章群で、話が語られ、それが読者にとって面白
い話であればそれでよしとするという作風だとも思う。
小説では、こういう作品の書き方は確かにあり、長編小説でも、このよう
なスタイルはあると言えます。メンケンは、ジョーゼフ・コンラッドの作
品を、20世紀初めの最高傑作だと評価し、その作品は「完全な結晶」と
なっていると評価した。わたしの考える作品の「完成」というのは、この
ような「結晶」を造ることなのですが、他方、文芸評論において、文学・
小説には、二つの類型があるという意見があります。一つは、コンラッド
が例に挙げられているのですが、「結晶」としての小説で、いま一つは、
その対極にある、何の必然性もないことが次々に続いて行くが、話は、不
思議なことに非常に面白いというものです(ただし、結晶型の小説が好き
な読者には、この類型の話は、「話になっていない」ということになりま
す)。

新谷は、この二つの理念類型で考えると、結晶作品の対極にいるのではな
いかとも、考えたのです。そして、そのような判断規準で、『クオ・ヴァ
ディス』を考えると、別の評価が出てくるだろうとも言えます。
ただし、『クオ・ヴァディス』は、中途半端だとも言えます。最初に話を
連載し始めた時のプロットというか、物語は、途中でかなり変更されてい
るのではないか、と個人的には思いますが、確認しようがありません。た
だ、矛盾することや、本来書かなければ、おかしなことにならなかった色
々なものを考えると、それらは、やはり何かの伏線だったのだとも思えま
す。

具体的な話をまったく述べていませんが、終わりまで読んでしまっている
ので、ここであまり具体的な話を書くと、これから話を読もうと云う方が
おられると、それは邪魔になると思えるからです。

この程度は書いてもよいだろうという具体的な話を記します。一つの設定
で、人類は遙かな未来には、不老不死に似た存在となっている。しかし、
種としての人類は滅亡に直面している。何故こういうことになったのか、
それは、過去に起こった「大破局」が原因である。では、何故大破局が起
こったのか。この破局を回避していれば、人類の未来は、もっと可能性あ
るものだったろう。このように考えた、未来における最高レベルの科学者
であるフレイア教授(女性)は、一体どこで人類の運命が転換したのか、
その「分岐点」を見いだし、歴史を改変することを考えます。未来では、
しかし、このような考えも行動も許容されない。そこで、フレイアは、腹
心のオーディン(男性)を含めた、協力者である科学者たちと倶に、航時
機(柩の形をしている)に乗って、成功するか失敗するか分からない、時
間跳躍を行い、はるかな過去に飛ぶ。第一巻では、こういう背景の話は出
て来ませんが、間もなく、非常に大きな話の背景に、このような世界構成
が設定されていることが分かります。第一巻では、フレイアとオーディン
が再会するところから話が始まる。
他方、最初の章では、吸血鬼と、それを倒そうとする、ヴァティカンの特
別高級要員であるソフィアという不老不死の女性との死闘が出てくる。不
老不死だとも言える吸血鬼がいる一方、それを組織的に倒そうとするヴァ
ティカンがあり、吸血鬼同様に不老不死に近いソフィアのような戦士がい
る。最初は、吸血鬼との闘いの話かとも思えるが、背景に膨大な歴史や、
様々なことが関わっている。「伯爵」と呼ばれる、何世紀生きているのか
知れない、謎の吸血鬼なども登場する。伯爵は、ソフィアの胸に、大型の
杭を発射して打ち込み、ソフィアを殺そうとするが、フレイアたちが彼女
を助ける。
オーディンと再開したとき、フレイアは、十歳ぐらいの美少女に変化して
いて、自分の姿を眺め、「何故、わたしはこんな姿になっているのだ」と
元々大人の姿だったフレイア教授は云うが、オーディンにも理由が分から
ない。30代ぐらいの好青年に見えるオーディンと、十歳ぐらいの美少女
の姿で、21世紀のどこからそんな衣装を入手したのか、十九世紀のイギ
リスの少女服を着たフレイア教授が一緒になって、様々な冒険に出会う。

こういう話で始まるが、意表を突く不可解な話や設定が次々に出てくる。
わたしが思うに、これは『ユダ福音書』に記されている、ユダはイエズス
を裏切ったのではなく、実はイエズスのもっとも信頼する忠実な弟子で、
イエズスの指示で、わざと裏切り者を演じたのだという話から発想を得て
いるのだと思える。つまり、どこで出てくるのか、どういう役割なのかは
ここに書かないが、イエズスとユダも、二千年のときを越えて、現在にい
る。
ヴァティカンの最高の位階にあるのは、通常は教皇であるが、この話では、
世のなかには知られていないが、最高の位階にあるのは、アテナという名
の十歳ほどに見える少女で、盲目で、椅子に座ったままの彼女が、ソフィ
アに指示を与えたり、ヴァティカンに指令をだしている。アテナも不老不
死である。話の舞台は、主として現在であるが、ときに、古代ローマや、
中世ヨーロッパの様々な時代を舞台に、色々なエピソードが描かれる。

このように記すだけで、何という広がりのある破天荒な話なのかが分かり
ます。流石に、これだけ風呂敷を広げると、収拾の付けようがないとも言
えます。もっと強固にプロットや構成を詰めておけばよかったのかも知れ
ませんが、十巻まで行って、なお、話が広がって行くのですから、作者に
は、わたしが期待したような「結晶的」な話の収拾への志向がなかったの
だとも言えます。

Amazonのページ: https://www.amazon.co.jp/dp/4344839420/

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添付画像:第20巻の表紙


_ Miranda

 

「私たちの道は、暗く冷たい」 画像処理

 投稿者:Miranda  投稿日:2017年 4月17日(月)05時19分18秒
返信・引用 編集済
 
一般に、わたしは「画像処理・プロセス」と呼んでいるが、これは、
色々な画像処理・プロセスを含む作業である。画像処理ソフトが使え
るようになった時(というのは、1998年かその前後)以来、色々
な画像処理を行ってきた。

大体、どういう画像処理をしてきたかというと:大まかに:

1]アナログで紙に描いた絵をスキャンしたものを、加工する
2]自分で描いた絵ではないが、スキャンした画像を加工する
3]画像ソフトで、デジタルに絵を描き、加工する
4]モルフ或いはモーフ(モーフィング)と呼ばれるプロセス
(註:モーフィングは、広い意味があり、複数の画像をコラー
ジュしたり、元の画像に変形加工したりして、これを合成する
ものもある。最初のコラージュの例は、アイコラが普通には分
かりやすい。これは、ある人の画像で、顔だけを別人に置き換
えるとかである。モルフで中級以上の技術力があると、ある絵
がコラージュされたものかどうか、判断できる。これはモルフ
を造るとき、いかにすれば、自然に見えるかの実践的知識が前
提になり、この知識から、コラージュされているか否かが判定
できるのです)。
5]モルフの応用というか、これもモルフの一種になるが、他
の人の描いた絵(自分で描いた絵でも構わない)と写真などを
合成し、これに、文字とか、メッセージを加える処理がある。

細かく分類すると、いっぱいあるのですが、大体以上のようなものが
画像処理と呼ぶものです。デジタルで絵を描くときは、画像処理が行
われているのが普通です。写真ではなく、デジタルで描かれた絵は、
殆どの場合、「レイヤーの重ね合わせ」になっています。レイヤーの
重ね合わせとはどういうものかというと、一番簡単には、人物の絵が
あり。この絵は一枚のレイヤーの上に描かれている。このレイヤーの
下に、背景の絵が描かれたレイヤーがある。人物の絵のレイヤーは、
人物の絵以外の部分は、透明になっています。この二枚のレイヤーを
重ねて見てみると、背景の前に人物がいるように見えます。レイヤー
は「透明度」というものが変更でき、普通100%で、不透明ですが、
この値を60%などにすると、人物が半透明になり、背景が、人物を
透かして見えます。描いた絵ではなく、写真を使うと、薄い半透明の
人物が、背景のなかに浮かんでいる「幽霊の写真」が、簡単に作れま
す。アニメのセル画に似ています。

普通、人物を描くときも、複数のレイヤーで描きます。そうすると、
まったく同じ絵であるが、人物の肌の色が違うとか、着ている上着が、
青だったり、赤だったりと、色々なヴァリエーションが作れます。レ
イヤーごとで、色相を変えたり、明度・彩度・透明度などを変更でき
るからです。

以下に、私たちが過去に作った画像処理のタブローを示します。

これは、シグネチャー(あるいは、プロファイル画像)として作成し
たものです。
前面にいる人物は、セレニティ(セーラームーン)で、この絵は、私
たちが描いたものではなく、あるファン・アーティストが描いたもの
ですが、どこの誰なのか、いまでは分かりません。また、画像自体、
元の絵とはかなり違ったものになっています。
背景にあるのは、冬の林のなかの小径の写真で、これも誰の写真か、
いまでは分かりません。また、かなり加工しているので、どこまでが
オリジナルの写真と同じか、よく分からないです。枝とか、木の幹と
か。描き加えたり、あるいは消し去ることは、割に簡単にできるので
す。
文字が入っていますが、これは、私たちの書いた文章で、文字を入力
しています。
雪が舞い散るのが見えますが、元の写真にこういう雪はなかった。写
真の場合、よほど高速撮影しない限り、雪片が宙に浮いている情景は
撮影できませんし、できたとしても、こんなに明瞭に鮮明には写りま
せん。従って、背景の雪は、描いて加えていることになります。

セレニティは、背中の蝶の翅のような翼は、なかが半透明になってい
ます。背景画透かし見えます。しかし、身体と長い髪は、透明ではな
く、背景は透かし見えていません。
セレニティの背中の翅は、しかし輪郭部分は半透明ではないので、翅
の実体と、その輪郭は、別のレイヤーになっていることが分かります。
また、セレニティは、長いスティックを手にしていて、その先端に三
日月のシンボルが付いていますが、この三日月は、半透明で、背後が
透かし見えています。つまり、この三日月と、スティックの頭部は、
また別のレイヤーの上にあるのです。

このプロセス画というか、タブローは、文字の効果も、一レイヤーと
して数え、調整レイヤーも数えると、全部で、80枚超のレイヤーで
構成されています。実際に出力されている画像では、30枚ほどのレ
イヤーを表示し、50枚余りのレイヤーは、非表示状態です。

レイヤーの重なりとは、どうなっているのか、サンプルとして、この
「冬のセレニティ」のレイヤー配置をキャプチャで撮影した画像を、
以下に提示します。80枚ほどのレイヤーをキャプチャするため、三
つの画像が必要で、これは三番目の一番下のレイヤー群です。ここに
は、23レイヤーしか映っていませんが、あいだのレイヤーを画像か
ら消しています。本来、30レイヤーぐらいが、このキャプチャには、
写っていました。また、二つレイヤーの重なりが、列んでいますが、
この最下層レベルでは、まったく同じですが、上の方では違ったレイ
ヤーの表示・非表示状態になっています。(これは、レイヤーの数が
あまりに多いので、どのレイヤーが何の役割なのか、分かりにくいの
で、表示・非表示状態の異なる二枚の絵を出力して、それを、この二
本のレイヤーの柱の左側に置いて、どのレイヤーが、どの絵あるいは
文字に関係しているのか、簡単に分かるように造った画像だからです。
こういうレイヤーが、下から上まで、80枚ほど列んでいるのです。
(以下の図には、そのなかの23レイヤーが写っています。上の方に
もっとたくさんのレイヤーがあります)。




この画像あるいはタブローに記されている文字は、

  私たちの道は、暗く冷たい。
  いつか、この命の終わりの日に、
  幽かな星の光と出会うだろう。

  Our way is dark and cold.
  Sometime, at the end day of life,
  We will meet light of the star.

(画像ファイル)


日本語と英文と、少し意味が違いますが、英文を記すスペースの加減
上、英文は、幾らか簡略化されたものになっています。
これは、セレニティの言葉と云うことになっています。

_ Miranda
 

Reflexions on my Life

 投稿者:Miranda  投稿日:2017年 4月16日(日)06時29分8秒
返信・引用
 
人生を振り返って視ると、「後悔することばかりだった」というのは、
誰だったか、社会的に大きな成功を収め、外目には羨ましいという人生
を送った人の言葉であったと記憶する。実在の人の言葉だったのか、小
説か何かでそのような言葉があったのか、記憶が定かでないが、これは、
実際に社会的に成功を収めた実在の人の言葉だったようにも思う。

外目には、成功し、誰しもが、あの人は優れた人だ、立派な人だという
ポジティヴな評価のある人、本人も自己の人生に満足しているだろうと
しか思えない人が、その内心の吐露においては、自己の人生を、「後悔
することばかりだった」というのは、人はどこまでも高望みするという
ことなのか、あるいは世間的な評価とは別に、当人自身の確固たる自己
評価があり、それだけ自己に厳しかったということなのだろうか。

少なくともわたしには、この問題は分からない。わたしの人生を振り返
ると、「後悔することばかりだった」というより、「わたしは、どうし
ようも罪人であったのか、あるいは人から忌み嫌われた利己主義者だっ
たのだろうか」という問いが起こる。一言で言えば、響きがいよく、自
己を美化しているような感があるが、「私は此の世の異邦人だった」、
此の世は「私の故郷でなかった」という実感である。

「両手に風をつかむことは空しい」というような言葉が、『伝道の書』
(コーヘレトの言葉)のなかにあった。いま思うのは、まさに、両手に
「風をつかむのは空しい」という思いである。

カール・ユングの考えたことに、此の世には、十分に生まれて来なかっ
た人がいるとも云う。わたしは、此の世に不十分に生まれて来たのだろ
うか。あるいは、それはわたしの自己合理化で、言い分け、自己美化な
のさろうか。そのようにも思える。ジョーゼフ・コンラッドの『ロード
・ジム』のなかに、状況はかなりに違うが、人から尊敬を受け、社会的
に成功を収め、何も不満なことがるとも思えない、出自も良ければ、そ
の人物も優れている、さる船長が、自身の指揮する船から、重しを身体
に付けて投身自殺を行うエピソードが述べられる。

マーロー(副主人公に相応する重要な人物)は、亡くなった船長の死が
理解できないという、元船長の元にあった老船乗りに対し、人には何か
悩みがあるものだ。ただ亡くなった船長についは、自殺を決意させた
「その悩み」というのは、私やあなたなどにとって、まったく問題にも
ならないことだろうと、慰める(昔のサイモン&ガーファンクルの『リ
チャード・コーリー』に、これに類似したシチュエーションが歌われて
いる)。

わたし自身は、自己のレーベンのありようをどう考えるべきなのか。こ
の問題は、何時頃からか、わたしの心に巣くっていた。人は幸福のため
に生まれて来たのではないのか。人はいかにすればよいのか。わたしは、
此の世にあって、「惡なる存在」なのか。考えても、生きても、答えが
でない。死を畏れるのは、自然ではないのかとわたしは書いた。わたし
は、いかにあればよかったのか。自分で記すのもおかしいかも知れない
が、あまりにもわたしの生きて来たことは、惨めではなかったのか。

死を畏れ、「死を憂きもの」とするのが本心ではないかと思う。しかし、
この人生、わたしの生きて来たことの悲惨と憂いは、死によってしか解
決しないとも思う。

_ Miranda
 

『聖ロザリンド』

 投稿者:Miranda  投稿日:2017年 4月14日(金)01時45分13秒
返信・引用
 
表題の「聖ロザリンド(セイント・ロザリンド)」と云うのは、
わたなべまさこの少女怪奇(?)漫画のタイトルである。偶々コ
ンビニで本を見ていると、かなり大きな版で、分厚い頁数の、こ
の漫画があるので、懐かしいと思って購入してみた(しかし、頁
数が、380ページ以上ある。記憶では、こんな長編ではなかっ
たような気がするが、再読して矛盾がないので、元々、この長さ
だったのである)。

この作品は、45年ほど前に、「週刊少女フレンド」に掲載され
ていたもので、44年前、1972年に単行本がリリースされた
のではないかと思う。「少女フレンド」に連載されていたのかど
うか記憶にないが、書店で単行本をその頃に見た記憶がある。記
憶では、ハードカヴァーの一種の特装版だったように思うが、記
憶が合っているのかどうか、確信がない。もっと前にリリースさ
れた作品で、1972年頃に、特装版になって書店で販売された
のだと、考えていた。しかし、どうも書店で見たのが、最初のリ
リースのようである。

本は購入していなかったように考えていたが、それにしては内容
をよく覚えているので、実際は本を購入して読んだのかも知れな
い。非常に異色というか、「いかにも、わたなべまさこらしい」
作品だとも思ったが、それでも、これは非常に珍しい作品だと当
時思った。

『聖ロザリンド』とは、どういう話なのか。概略の説明はできる
が、実際に読んでみると、想像力を越えた話である。アマゾンに
はレビューが載っており、そこで、ロザリンドの行動の動機や、
ロザリンドとは何なのかという考察が行われている。ロザリンド
というのは、8歳の少女の名で、父親はロンドンの博物館の館長、
母親は、ロードス島の旧家・名家の出身で、ロザリンドは、イギ
リスの上流階層のお嬢様になる。金髪碧眼で、美しく、礼儀正し
く、キリスト教において敬虔で純粋な心を持っているとしか思え
ない少女である。ところが、無邪気な心のままで、いかなる心理
的動機によるのか、次々に残酷な形で殺人を行って行く。これを
知った母親は、ロザリンドに毒を飲ませた後、自分は銃で頭を撃
ち抜き自殺する。しかしロザリンドは応急処置が素早かったので
死を免れた。次に父親が、娘が無邪気な言動の大量殺人犯である
ことを知り、ロザリンドを修道院に入れて、二度と普通の世界に
は帰って来ないよう、一生を修道院に過ごして、殺人の罪を購う
よう、対応するが、ロザリンドは、修道女十数人全員を毒殺し、
更に、修道女たちが、磔刑となったイエスを崇拝していたことか
ら、天国に行けますように、修道女たちの望みを叶えようと、全
員を木の十字架に釘で打ち付ける(大量殺人で、猟奇殺人事件と
云うことになる)。

半世紀近く前に、この作品を読んだとき、このような人格(ペル
ゼンリッヒカイト)が、現実に存在し得るのだろうかと、漠然と
疑問を感じた。
四十数年間経過して、いまに再読して思うのは、その答えは、否
です。この漫画作品に出てくるロザリンドの人格は、存在しえな
い。現成しないという結論になります。小説あるいは物語の上で
は、存在しているように思えるが、現実には成立しえないことが
あり、このロザリンドの人格的存在が、それに当たる。つまり、
人格として、ロザリンドは成立せず、精神障害だとしても、解離
性障害とはいえないし、アスペルガーとか発達障害とか、どれも
当て嵌まらない。

しかし、この作品を読むと、こういう少女が人格として成立して
いる錯覚が生じるようである。どうして、そういう錯覚が生じる
のか。わたなべまさこ先生には悪いが、話の流れに応じたご都合
主義と、いま一つ重要なことに、確率的には極めて低いが、偶然
に起こりえる可能性のある、非日常的状況を、連打的に繰り出し
て話を進める、作者の物語創造者としての類い希な才能に、普通
の思考力や批判精神が太刀打ちできないという、この二つの重な
りによると思う。

ロザリンドの人格の統一性や、人格そのものが、そもそも成立し
ていない。このような人格は存在しえないのである。何かの偶然
や、精神の異常が輻輳すると、ロザリンドのような精神が実在し
えるかのような錯覚が生じるが、実際は、成立しない。しかし、
作者であるわたなべまさこ自身が、話の終わりには、「そのあわ
れさ、切なさに涙した」と書いているので、作者自身が、自分の
構成した「仮想人格」を、疑似実在と混同して、混乱に陥ってい
る。
この問題は、しかし非常に難しいとも言える。四十数年前は、私
も、いま此処で述べているようには判断できなかったし、長いあ
いだ、忘れつつも、心のどこかに「ロザリンドの人格実在性」の
問題が問われていたようで、この異色の物語を、いかに解釈する
か、考え続けて来たとも言えるのです。

私のこの判断は、世間知とか常識とか、人間心理の洞察とか、そ
う云った次元から出てくるのではなく、人間の統覚意識自我の成
立についての解釈から出てくるものだと思う。
ロザリンドという「少女の自我実存」は、現実に成立するのかど
うか。これは、人間の意識はどのような位相で現象するのか、統
覚自我は、何を根柢根拠として成立し、現成し、現存在となるの
か。哲学的問題になります。

『聖ロザリンド』という作品は、哲学的問題、形而上学的な問い
を、顕趨させると云えるのです。作者のわたなべまさこ氏が述べ
る通り、作品は、読者によって、それぞれ異なる解釈や理解に委
ねられているものなので、各位は、実際に作品を読んで見られる
ことです。怪奇サスペンスで、異常な精神構造の少女が登場する
という話なのか、善悪の区別の付かない少女が、連続殺人を、鮮
やかに遂行して行く、超人の物語なのか。読者によって、意見は
分かれると思いますし、それはそれでよいのだとも思います。

https://www.amazon.co.jp/dp/4800267633/

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添付画像)宝島社が本年3月に復刊した、『聖ロザリンド』
の表紙画像。この表紙の金髪の少女がロザリンド。

_
 

『Marie RA. のエウアンゲリウム』

 投稿者:Miranda Welrech  投稿日:2017年 4月10日(月)20時59分33秒
返信・引用 編集済
 
最近、サイトのページのデザインを調整し、更新しているのですが、内容・コン
テンツについては、新しいものを投入できる準備が整っていません。つまり、コ
ンテンツに新しい内容を加える予定なのですが、ブログに新しい記事を追加する
ような簡単さで、サイトの新しいページは作成できないという問題があるのです。
ハイパー・テクスト・マーキャップ・ランゲージやCSSが、十数年前には考え
なかったほどに複雑化しているというのも一つの理由ですが、もっと別の所にも
理由があります。

それはとまれ、少しづつサイトのページを、新しくタグを書き直しているのです
が、この過程で、長い間読まなかったサイトのページを読んでみたりしている
(自分の書いた文書を読み返しても、あまり仕方ないというのもあって、かなり
な数の文書を、十年ぐらい前に読んで、それ以降、読み返していない。
ところで、「メモランダム集」という文書を、昨日あるいは今日読み返している
と、次のような文章が書かれている:

>「永遠の故郷」とは何であったのか、十五年前か、二十年前に書いた文章には、
かなり明確にその存在について記されている。その頃経験していた心の現象とか、
夢とか、意識のありようとか、或る意味で奇妙なものがあったのだと思う。ノイ
ス・グノーシス主義或いはノイシオン・グノーシス主義とは云っていないが、何
か特殊な「救済の福音」だと称して構想があったような気がする(「気がする」
のではなく、実際に、そういう内容の文章が、昔の記録にかなりたくさんあるの
であるから、実際、そういうことを考えていたのであるが)。

>『Marie RA. のエウアンゲリウム』と云うタイトルの文章が多数あり、或いは
「存在世界の夢の流出」過程についての教義文が複数残っている。一番長いもの
は、原稿用紙換算で、七十枚か八十枚だと思うが、最初の二十枚ぐらいはグノー
シス主義創作神話のような内容である。……

こういう風に書かれている。アーカイヴ日付は、2001:0506 で、いまから約16
年前に書いた文書だと思う。これを読んで、奇妙に思った。「??」である。
「『Marie RA. のエウアンゲリウムと云うタイトルの文章」が、多数あると
述べている。この文章を書いた十五年か、二十年前にそういう文書を多数書いて
いると、また、「七十枚か八十枚の文書」があると記している。
「??」なのは、「Marie RA. のエウアンゲリウム」なる文書が多数あると云っ
ているが、いまの私には、それは何なのか心当たりがない。16年前に書いた言
葉なので、更に、そのときから十五年、二十年前の文書だとすると、三十年から
三十五年前の文書だと云うことになるが、それはいったい何なのか、考えても、
思い当たるものがないのです。
しかし、一週間ほど前に、ある「単語」で検索して視ると、実に色々なものが出
て来て、2001年頃に書いた文書が出て来たが、最初、自分が書いた文章に思
えなかった。
何回か読んでいると、これは文体や、述べている内容からして、わたしの書いた
文書だと、思えて来たが、実感がわいたのは、それでも少し経ってからである。
今日、2001年から2003年頃に書いていたファイルを二つほど開いてなか
を読んでみると、昔、こんなことを書いていたのかと思った。そのなかの一つの
文書で、三次元座標変換に使う行列を、変換の「テンソル」とか自信を持って書
いているので、変換行列はテンソルだったのかと、あらためて思ったが、いまは
真偽不明である。
昔のハヤカワSFシリーズのなかの本を再読していると、話のなかの登場人物が、
「テンソルだけでなく、スピノル微積分も知っていなければならない」とか述べ
ているので、テンソル代数は、大昔に学んで、よく分からなかった記憶があるが、
スピノル微積分となると、そもそも私は学んでいないなあ、とか考えた。学んで
いないので、何のことか見当が付かない。いや、あるいはスピノル微積分の勉強
をしたことがあるのかも知れない。
テンソル代数は、相対性理論を表現するのに、この代数学が使われていて、特殊
相対性理論のローレンツ変換も、教科書では、変換行列のテンソルで表現される。
昔は色々と試みられた統一場理論とか、一般相対性理論も、テンソル代数を使っ
て理論が構成されている。量子力学も、演算子を使った固有値方程式の集合体の
ようなもので、演算子が無限次数の行列で表現される。

いや、そういう話ではなく、『Marie RA. のエウアンゲリウム』が多数あるとか
書いているが、一つも思い当たるものがない。しかし、この文書は、嘘を書いて
いるとは思えない。[「存在世界の夢の流出」過程についての教義文が複数]と
述べているが、この「教義文」とかの一つは、『聖マリア・チェチーリアと星の
鳥の神話』である。この文書は、Khoora Sophiaas に掲載している。いま一つ、
Khoora Mirandaasを造ってページを造った当初から、タイトルだけは載せている
が、内容は一度もインターネットに掲載したことのない『リベル・ニシュタ』の
ことである。

そうすると、『Marie RA. のエウアンゲリウム』と呼んでいる文書も、何かあっ
たのだと思える。思い当たりがあるようでもあるが、少し違うようにも思える。
三十年前は1987年で、三十五年前は、1982年である。そうすると、ワー
プロ文書には入っていなかった可能性がある。1980年代の初め頃に書いた、
『Sub Caelo Aeterno』は、手稿しかなかったが、ワープロに入力してデジタル
化したので、いまでも、この作品は見ることが出来る。しかし、1986年以前
の作品や文書は、ほぼすべて手稿のままで、デジタル化していない。『スターサ
ファイヤの進化』は、手稿のコピーしかない。『ナイルの古歌』などは、詩とし
ては長いが、文章量はたいした分量ではないので、手稿からデジタル化して、サ
イトに載せたが、他にも詩はあったはずである。

とまれ、1980年代初頭から半ばに書いたものが多数あると、十六年前に明記
している、『Marie RA. のエウアンゲリウム』とは何だったのか。手稿があるは
ずであるが、どこにあるのだろうか。何なのだろうか。
というようなことを、考えています。

_
 

新しい年のご挨拶

 投稿者:Miranda Welrech  投稿日:2017年 2月11日(土)12時14分17秒
返信・引用 編集済
 
すでに新しい年となって、6週間が経過していますが、ここで、
たいへん遅いですが、新春のご挨拶をお送りします。

昨年、2016年は個人的に色々なことがあり、実際に直面し、
体験するまでは、想像できなかったようなことを知り、認識しま
した。とても、掲示板に心を向けるだけの余裕がなかったとも言
えます。
人生観や、世界観、存在觀までもかなりに変化したようにも思え
ます。

すでに本日は、2月11日となります。

2017年、そして更にそれに続く、2018年、21世紀の地
球や人類は、どこに向かおうとしているのか、疑問や関心がある
とも言えます。
時間が許すなら、そういったことについて、考えをめぐらして見
たいとも思っています。

ここに、遅まきながら、短いですが、2017年新春の言葉を、
記させて戴きます。

各位に、霊の光明の結晶にあって祝福がありますように。


    _ Miranda et Marie RS._

 

ウェブサイトの更新情報(11月27日)

 投稿者:Miranda  投稿日:2015年11月27日(金)16時55分44秒
返信・引用
 
色々とファイルに手を入れているのですが、CSSの扱いは、難しいという
しかないです。

それ以上に、現在のウェブサイトを構成するためのxtmlとCSSの組み
合わせ方などが、よく分からない。

ということで、「オグドアス・プレーローマ構成表」というページを、レイ
アウトを変えて、CSSで書き換えるというのは、長時間作業していたので
すが、なかなか進まない。古いHTMLとCSSの組み合わせなので無理が
あるのかも知れない。また、色指定で、RGBの256色指定を使っている
のですが、色が連続的に変化しないという現象に気づいた。以前はそういう
ことはなかったと思う。

背景の色を決めるとき、薄い色にしようとすると、大体選択範囲が決まって
きます。純白というのは、理論上は、ffffff という、三原色が、すべて、
ff つまり、256の値にしたときの色で、薄い赤だと、fff0f0, 薄い青だと、
f0f0ff, 薄い緑だと、f0fff0 とこういう感じに基本的になります。

ここから薄いクリーム色の背景色とか、非常に薄い紫などの背景色を指定す
るのですが、どうもおかしい。例として、f4f3ff という色だと、これは、薄
い水色がかった色のはずですが、ごく色の付いた灰色に見える。f5f3ff か、
f6f3ff か、赤の色を、一段増やすと、突然、かなり明白なピンク色になる。
こんな風に急激に色が変化するのはおかしいのであり、他方、f4f3ff 以下だ
と、f0f3ff とか、f5f2ff とか、みんな同じ薄い紫色がかった灰色に見える。

RGBの場合、どの色でも、一段変化させるぐらいでは、そんな明白に違っ
た感じの色には変化しない。少しづつ色が変化して行くはずなのですが、ど
うも、ある範囲内だと、色指定の数字を5,6段階変えても、色はほとんど
変わらないのに、上の例のように、ある色を一段階変えると、灰色のような
画面色が、突然、ピンク色になったり、水色になったりする。一段階の変化
では、こう急激な色の変化は起こらないはずであるが、背景色を設定するた
めに、RGBを調整していると、こういうことが起こる。ディスプレイに問
題があるのだというのが、個人的な結論です。つまり、わたしには、区別が
付かないが、高品質のディスプレイだと、恐らく、正しい色指定が表示され
てるのではないかと思う。


それはとまれ、最初に述べた通り、「オグドアス・プレーローマ構成表」を
作り直しました。次のページにあります。

http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/t1-ogdoa.html


この後、「オグドアスのイメージ表現」ということで、オグドアスをイメー
ジでモデル化した図について、そのイメージ・モデルの意味するところ、そ
もそも、アイオーンとか、オグドアスとは何なのか、という文書ページを造
っていたのですが、未完です。

かなり興味深い問題があり、オグドアスとかプロパトールの意味が、言葉の
説明ではなく、図・イメージにしてみると、かなり特徴として理解しやすく
なる。(イメージの基本モデルは、十年前に考えたものですが、今回、もう
少し、他者に分かるように説明を加えた絵を画像ソフトで作成しました)。

プトレマイオス派の「オグドアス」というのは、元々、プトレマイオスが、
『ヨハネ福音書』第一章冒頭にある、奇妙な記述をグノーシス的に解読した
説明理論を、リヨンのエイレナイオスが、反駁目的に引用したなかで出てく
るのですが、このことも考えると、「オグドアス」の意味するところという
のは、非常に興味深く、これをイメージにすることで、「存在と無」の問題
が背景にあることが分かって来る。


「存在と無」あるいは、「存在の根拠は何か」という主題の文書を別に書い
ているのですが、書き始めると錯綜してくるので、回避しようと思った、存
在や無の意味規定についての議論にどうしても入ってしまう。かなり書いた
ので、あと「存在と無」の章と、再度の「存在は何故存在するのか」その根
拠原理を述べる章で終わりとなるのですが、なかなか、進まないです。その
他方で、オグドアスのイメージの文書は、この「存在と無」の議論に繋がっ
て来る。

そもそも、「オグドアス」とか「アイオーン」、そして「グノーシス」とい
うのは、漫画やアニメやラノベのガジェットや装飾品ではない訳で、実存の
世界把握、存在了解の問題で、当方は、後者の立場にある。


_ Miranda Welrech

 

ウェブサイトの更新情報(11月25日)

 投稿者:Miranda  投稿日:2015年11月25日(水)15時35分38秒
返信・引用
 
Khoora Sophiaas では、かなりの数のページを、新しいレイアウトに修正する
と共に、可視性がよいように、背景を白に近い色に変更しています。

また、文章での間違いや、小さな規模での書き直しなどは、その都度に行って
います。

最近の更新というか、現在は、ページのレイアオウトの変更・修正を主に行っ
ているのですが、

キリスト教天上位階論 (天使位階表) I

キリスト教天上位階論 (天使位階表) II

この二つのページを、見た目では、全面的に修正しました。
表を造っていたのですが、これを、CSSを使って作り直しました。ただし、
CSSですべてを行うのは無理があるので、古い非推奨のタグなどと、混合し
ています。

ページ全体、表自体も、非常に見やすくなったと思います。
また、あまり分かりませんが、細かい部分で文章を書き直したり、修正してい
ます。

英語での天使名と、天使階梯の、名前の起源・特徴・役割などを、非常に簡単
ですが、記した、新しい表を造りました。
また、「大天使」には、二つの意味というか用法があり、これについて、簡単
な(といっても、かなり長いですが、説明を補足し、加筆しました)。

現在は、どうブラウザーで見えるのか、非常に難しいです。しかし、格段に見
やすくなったことは確かです。


_ Miranda Welrech

 

存在と無-静謐のエクスタシー

 投稿者:Miranda  投稿日:2015年11月18日(水)03時06分59秒
返信・引用
 
また別の話になりますが、最近、「グノーシス」とか、「アイオーン」とか、
「プレーローマ」とか、一体何なのか、分からなくなってきたというのがあり
ます。

キリスト教でも、三位一体の「聖父」「聖子(キリスト)」「聖霊」、この三
者は一体何なのか、考えると段々分からなくなってきます。また、キリスト教
の救済とは何なのか。死後に「天の国」に入り、「永遠のいのち」を得ること
なのか、または、地上で、人格を陶冶して、平和や、互いの愛や許し合いの世
界を造る、あるいは、造って行く過程に参加することなのか。キリスト教の
「神」とか「聖霊」とかは、一体何なのか。

ウィリアム・ジェイムズに『宗教的経験の諸相』という非常に面白いというか、
興味深い本がありますが、この本で、「神学における神」とかいう章があり、
そこで、ニューマン枢機卿(当時の代表的な神学者)の三位一体についての説
明文章を引用して、意味不明であると、切って棄てている処があります。確か
に意味不明だと云うべきでしょう。

一体、キリスト教の神とは何なのか。分からないというべきです。わたしには
分からないし、分かっている人などいないと思います。

しかし、訳の分からないものに対し、信者が集会で、「聖なるかな、聖なるか
な、万軍の主なる神」とか歌って賛美している。

色々と考えることがあるというべきです。
グノーシス、アイオーン、プレーローマ、プロパトール……これらは、実際、
何なのか。

かぎになるのは、「存在」と「無」の概念というか、超概念だと思う。「存在
は、何故、存在するのか」これが、人生における最大の謎だった。

「人は死ぬとどうなるのか」というのも謎で、これは、最近、わたしなりに、
答えはこういうことだと、いうものが了解されてきた。

そして、「存在はなぜ存在するのか」これはしかし、分からない、とか考えて
いると、ふと、答えは実は簡単なことではないのかと思った。そう思うと、で
は「何故か?」と尋ねて見ると、心の内側から、答えが流れ出てくる。

それはパルメニデースか、ヘーラクレイトスと同じ考え方ではないのかとも思
ったが、いや違っているとも思った。「静謐なエクスタシー」というものがあ
るのを知った。答えが、展開しつつ流れて行くなかで、一種の恍惚状態だった。
無論、覚醒していて、ごく普通に考えていただけで、特殊な経験とは言いがた
い。違うのは、「存在の存在根拠」が、実に納得できたということである。そ
う考えれば、それは真理だと思った。

「エクスタシー」だというのは、同じ思考や論理をいまでも述べることができ
るが、感動とか、深い了解心理は起こらないからである。

「無」とは何かということが、この「存在根拠の了解」に密接に関係しており、
それは、グノーシスとか、アイオーンとかは何かという問題に関係する。

「存在」と「無」について、この年齢になって、ようやく、ある考えというか、
「真理の反響」を心に持ったが、それについて記したいと思う。
ただ、それは、多くの人にとって、退屈なことだとも思う。

ウェブサイトは、2002年か2003年頃には、ほぼ造り終えていた。従っ
て、最終更新が2004年というファイル・ページがほとんどである。いま、
2015年更新に代わって来ているが、内容の方まで手が回らない。

内容の方は、少しづつ書き直して行き、新しい文書を書いて載せたいと思う。
いまは、とりあえず、ここまでの話である。

しかし、掲示板は、本当に、更新の告知用に使うのがいいと思うようになった。


_ Miranda Welrech et Marie RA.
 

ウェブサイトの更新情報

 投稿者:Miranda  投稿日:2015年11月18日(水)03時02分19秒
返信・引用
 
二つのウェブサイトを造っているのですが、今後、簡単な更新情報を、この掲
示板に記したく思います。

ウェブサイトは、すべて手書きで(当然ですが)、タグやスクリプトも手書き
です。
ブログなどを利用した方がよいのかも知れないと思いますが、どうも気に入っ
たブログが思いつきません。

ところで、最近のウェブサイトの更新ですが、内容的には、書き直したいこと
や、新しく書きたいことがあるのですが、どういう訳か、時間の経過が速いと
いうか、文書を書いたり、スクリプトを書く速度が遅いというか、一日があっ
という間に経過して行きます。

とまれ、ウェブサイトのページ全体にわたり、レイアウトやタグの修正や変更
を行っています。

Khoora Sophiaas の方は、かなりなページが、新しいスタイルになっているは
ずです。新しいスタイルというのは、左右に、調整領域を造り、本文は、幅
1000ピクセル程度から、900ピクセル程度にして、文字を配置し、ディ
スプレイで、あまった左右の空間は、壁紙を使った空白領域にするということ
です。

従来は、ディスプレイの幅に対し、90%というように、本文設定していた為、
ディスプレイの横幅が広くなってきて、幅2000ピクセルのディスプレイも
珍しくないため、一行が極端に左右に広がり、一行に、百数十文字が履いてい
るというようなレイアウトが発生するのです、これを修正するため、本文のあ
るページの幅は、960ピクセル幅ぐらいを標準に、絶対値指定することにし
ました。

こうすると、少なくとも、ディスプレイの大きさによって、ページ本文が、左
右に無闇に広がるということがなくなります。

Khoora Sophiaas では、左右の余白に表示される壁紙を二種類造りました。白
に近いページ用には、何かギリシア文字の文書のようなものが重なって表示さ
れる灰色の壁紙です。これは、ナグ・ハマディ写本のなかの一頁を、画像加工
して、文字を抜き出して、二重に重ねたものです。従って、ここで出て来てい
る文字は、コプト文字です。

コプト文字は、ギリシア文字を元に造られており、かなり見た目が似ています。

もう一つ、黒か、非常に濃い藍色のページの左右の調整用空間の壁紙としては、
星雲群の写真画像を処理してグレイスケールにした上、色調反転して造りまし
た。星野写真ではなく、星雲群の写真です。これは、おとめ座星雲団の写真を
元にしていますが、壁紙として使うため、星雲の位置を動かしたり、消したり
と色々なことをしているので、実際のおとめ座星雲団の星雲配置とはだいぶ違
ったものになっています。

------------

全体的に、従来、本文は、相対文字サイズの3を使っていたのですが、3では、
小さくて見えないので、4に変えていっています。

非推奨の古いhtmlのタグはやめて、CSSですべて作成しようと思ったの
ですが、CSSでは、複雑すぎて、現実的に、込み入ったレイアウトは不可
能だと云う結論に達しました。単にCSSを使いこなせないだけかも知れませ
んが、例えば、次のような場合は、どうすればよいのか、簡単な方法が見つか
りません。

対象-例えば、
1)テキスト
2)テキストなどを含むボックス要素[テーブルなど]
3)画像
こういったものを、中央寄せにするか、右寄せ、左寄せにするか、という問題
で、CSSでは、面倒すぎて、どうにもならないというのが主観的な印象です。

15年ぐらい前のhtmlだと、align=center、align=right、align=left と
いう位置指定タグを使えば、簡単に、色々な対象の中央そろえなどができたの
ですが、いまは、何がどうなっているのか、分からないという感じです。

CSSだと、text-align:center; というスタイル指定を使うのですが、名前か
ら分かるように、これは、テキストを揃えるというスタイルで、テーブルや画
像などを、このCSSスタイルだけで、指定することができない。左右の margin
を auto に指定するとかいうのが必要だという話になるのですが、

ある対象を中央寄せするか、右寄せか、左寄せか、最低でも、三つCSSのス
クリプトが必要になる。つまり、

text-align: center;
margin-right: auto;
margin-left: auto;

この三つを書く必要があり、更に、これらを、html文で呼び出さねばなら
ない。しかも、これですべて解決する訳でもなく、これでも不十分なケースが
ある。

テーブルを二重、三重、四重に重ねて入れ子構造にしないと表現できないよう
なものの場合、何が何か分からなくなってきます。

(なお話題が別のものになり、かなり長くなったので、続きは、次の「存在と
無-静謐のエクスタシー」として投稿します)。


_ Miranda Welrech

 

時の経過で知ること

 投稿者:Miranda  投稿日:2015年11月 8日(日)12時26分45秒
返信・引用
 
昨日であったか、一昨日であったか、昔の「同人誌」を開いて中を少し読んで見
た。

随分と古い、昔の同人誌である。
そこで、ある人の「論評文」を読み返してみて、いまになって、文体や構成、ま
たそこに込められている思想の深さやメッセージ性、また論評であるので、ある
種の分析を行っているが、その水準の高さに驚きを禁じ得なかった。

昔、わたしは、この論評文の「深さ」や「そこに込められた思想」を理解できた
のだろうかと疑問を抱いた。いま読んで見ても、いま一つよく分からないことが
あるが、それは、わたしの教養の不足と、思考力の足りなさだと分かる。

また他方、昔書いた、わたし自身の「詩」のような何かをごく部分的であるが、
少し見てみて、言葉の豊富さと、イメージの喚起力や連想の広がりや強さに驚き
を感じた。いまのわたしが、「詩のようなもの」を、似たような手法で書いたと
しても、とても、ここまでの豊かな語彙やイメージの展開力は無い。あるいは、
年齢を経た分、抑制力がかかり、言葉に対し、吟味すると共に、内容に慎重にな
った為、過去の若い頃の奔放とも言えるイメージや語彙の洪水現象のような文章
が書けなくなったのかも知れない。

また、昔は、よく、こんなことを恥ずかしげもなく、また躊躇もなく書いていた
のかと驚いたこともある。いまは、経験によるのか、何を書くか、もっと遙かに
慎重になっていると思う。

年齢を経ても、人はそれほど賢くなる訳ではないことの見本のような気がしたが、
他方、矛盾するようであるが、歳月によって、幾らかは、賢明になったとも言え
るようにも思えた。何より、慎重になったことがある。イエイツには、「智慧は
ときと共に訪れる」という詩(4行詩)があるが、誰しも、年齢を経ると、昔は
愚かだったと痛感するものなのかも知れない。

この感慨は、どういうことなのか、いまの現状をどう理解するのか、いま少し、
考えを続けてみたい。


_ Miranda Welrech

 

スール・スーリールのドミニク

 投稿者:Miranda  投稿日:2015年10月26日(月)02時40分11秒
返信・引用
 
先に、スール・スーリールの歌である『ドミニク』の Youtube 動画を intraframe
で紹介しましたが、そこで、歌詞入りの動画で見ると、歌詞が分かってよいが、何
かアクサンとか、おかしいと記しました。
歌詞があると、半分ぐらいはフランス語の意味が分かるのですが、あと半分という
か、幾つかの単語が分からないと、歌詞の意味がよく分からないです。そんなに難
しいフランス語には思えないので、わたしの語学力の問題でしょう。

スール・スーリール(Soeur Sourire)は、長く、ベルギーの尼僧のグループの名だ
と思っていたのですが、どうもそうではなく、本名ジャンヌポール・マリー・デッ
ケルス(Jeanne-Paule Marie Deckers)という女性歌手の歌手としての芸名のよう
です。スール・スーリールには、定冠詞の La が付くようですが、日本では、ラを
付けては読んでいないはずなので、無視します。

この歌のタイトルに出てくる「ドミニク」というのは、異端審問で有名なドミニコ
会の創始者聖ドミニコのことで、繰り返しのルフラン句をあいだに挟んで、聖ドミ
ニコに関する逸話や背景を順番に歌っていきます。何か不愉快に思ったのは、第一
番の連が次のようになっているからです:

A l'e poque ou Jean-sans-Terre
De' Angleterre etait Roi
Dominique, notre Pere
Combattit les Albigeois


ジャンヌポール・マリーは、ドミニコ会の女子修道院の修道女(尼僧)であったよ
うで、カトリックの立場から、聖ドミニコを歌ったので、こういう歌詞になるのだ
と思うが、何か不快に思う。

上の歌詞は、Youtube に投稿された動画に出てくる歌詞を写したものであるが、綴
りが奇妙だというか、変な部分があるのですが、それは後述するとして、大体の意
味を書きますと:

失地者ジョンが
イングランドの王であった時代
ドミニク、我らの神父は
アルビ派と戦っていた


不快だというのは、「戦っていた」のではなく、一方的に異端宣告し、攻撃してい
たのではないかと思うからです。アルビ派というのは、いうまでもなく、オック地
方に10世紀から13世紀頃にかけて興隆した二元論的キリスト教的宗教の宗派カ
タリ派の別名で、広義には、グノーシスの一派ともされますが、古代の地中海世界
のグノーシスとは異なる宗教で、キリスト教から分化した、あるいは土着信仰との
シュンクレティズムで成立したキリスト教の分派とも言えます。ただし、キリスト
教の意味あるいは定義を、ニカイア・コンスタンティノープル信条に厳格に対応す
る宗教だとすると、こういう妄想教義は信奉していませんから、キリスト教ではな
いと云うことになります。

時代的には、聖ドミニコは、12世紀末から13世紀初にかけて、オック地方で、
カタリ派を「正統」カトリックに改宗させようと努力して失敗し、それを教訓とし
てか、清貧生活を始め、乞食修道会とも云われるドミニコ修道会の祖となります。
「戦っていた」というより、ドミニコは個人的には、カタリ派に思想的に敗れたと
も言え、清貧は、カトリック教会の特質と云うより、寧ろ、カタリ派が本格的な清
貧宗教であったので、カタリ派との信仰上の争いに敗れて、逆にカタリ派の清貧の
教えを継承して、修道会を開いたとも云えるかも知れません。

ジャン・サン・テ-ル(Jean-sans-Terre)は、こんな文章のなかで出てくると、
訳に困って、「失地者ジョン」としましたが、普通「失地王ジョン」というので、
後で、イングランド王であった頃、と続くと、都合が悪いのです。ジョン王は、在
位1199年-1216年であるので、聖ドミニコの生きていた時代と丁度重なっています。

この王はプランタジネット家の王で、プランタジネット王家は、ノルマンディー公
であったウィリアムが、イングランドを征服して造った王朝で(名前が途中で変わ
りますが、王統は同じです)、従って、イングランド王兼ノルマンディー公であっ
たので、北東フランスのノルマンディーを領土としていた。ジョン王の時代に、フ
ランス王との争いに敗れ、大陸フランスのノルマンディーの領地を失ったので、「失
地王ジョン」と呼ばれるのです。

それはとまれ、もう一度、Youtube 投稿の動画に出てくるフランス語の歌詞を以下
に示しますが:

A l'e poque ou Jean-sans-Terre
De' Angleterre etait Roi
Dominique, notre Pere
Combattit les Albigeois


アクサンは、英文キーボードか何かで打ったので、使えなかったとして、理解に苦
しむ奇妙な綴り、あるいは記法になっています。

まず、「 l'e 」とは何だろうかと思った。次に、それに続く「 poque 」というの
は、見たことがない単語なので、おかしい。最初の A とか、poque の後の ou と
かは、アクサンが付いていないとおかしいのですが、それは、何か理由があって、
フランス語キーボードで打ったのではないからだと思えますが、「 l'e 」という
のは何か分からない。また「 De' 」というのも何か非常に奇妙で不可解である。

歌詞は次々に出てくるので、ポーズをかけて、それぞれの歌詞のフランス語を見て
みると、この種類の不思議な単語か、語法が出てくる。意味的に考えると、最初と
次のラインは、まず間違いなく、「イングランドのジャン・サン・テールが王であっ
た時代に」としか読めない。「時代」という単語はどこにあるのかと思うと、
epoque がそうだとしか言えない。epoque(正確には、最初のeにアクサンが付いて
います)は、語頭が母音なので、これに定冠詞が付くとすると、e に同化するとい
うか、la epoque が一語になって、l'epoque となるのが自然なのです。従って、何
故、l'e と poque のあいだにスペースが入っているのかと云うことになります。

二行目は、「 De' Angleterre 」となっていますが、これは、どうしてこんな書き
方をするのか理解できない。正しく書けば、前のジャン・サン・テールと続いて、
「 Jean-sans-Terre d'Angleterre, ジャン・サン・テール・ダングルテール」と書
くべきであるが、そうはなっていない。こういう誤表記は一体どういう場合に起こ
るのか、見当が付かないです。

(色々と間違いが他の連にもあるとか書きましたが、ポーズを使いつつ、歌詞全体
を、もう一度吟味すると、アクサンがないのはすべて一貫していますが、他の連で
は、se en が、s'en となっているというように、別におかしい処は見つからないよ
うです。この連だけが、何かおかしいということになります)。

しかし、何か、なんというのか、歌詞を見ていると、段々腹が立ってきます。独善
的というか、聖ドミニコを美化して、勝手なことを言い放題という感じです。まあ、
ドミニコ会の修道女が歌っていたので、こういう歌詞になるのだと思いますが(スー
ル・スーリールというのは、英語で言うと、Sister Smile というのか、「微笑みの
修道女」という感じですが、後になってカトリックの方針に異を唱えて、より自由
主義的な思想へと移って行った。ジャンヌポール・マリーは、新しい慈善事業をし
ようと思ったが、音楽的には進歩したが、曲が売れなくなり、また非常に大きな困
難に直面して、共に暮らしていた旧知の親友の女性と催眠薬自殺し、二人は同じ墓
地に埋葬されたとされます)。

ドミニコ会と聞くと、何か冷酷残忍な殺人修道会のような印象があり、高名な異端
審問官で、後に司教に叙任され、榮光を受けた、ベルナール・ド・グィーなどの名
が出て来ますが、他方、カトリック最大最高の知性で、神学者であった天使的博士
・公同博士・聖トマス・アクィナスもドミニコ会なので、冷酷陰惨修道会ではない
のかも知れない。(しかし、聖トマスの『スンマ・テオロギアイ(神学大全)』と
か、何か常軌を逸している。論理と知性の光輝に満ち充ちているようで、狂気の書
物のようにも思えてくる。まじめにあれを読んでいると、段々、頭がおかしくなっ
て来るのではないのかとも思える。まして、それを書いた聖トマスは、ある高名な
先生の言葉では、晩年、気が狂ったのだろうと云う通り、やはり、書いている裡に、
頭がおかしくなったのではないかと思える。……いや。崇敬すべき聖なるトマス師
に対し、「狂っていた」などと云うのは、あまりにもおこがましいですけど)。

ドミニコ会にある意味で対立するのが、同じ乞食修道会と称されるフランシスコ会
であるが、一説には、カトリック教会のなかで、最右翼がヴァティカン、最左翼が
フランシスコ会だとも云います。無論、この「右翼・左翼」は政治的な意味ではあ
りません。ヴァティカンが保守的で、権威主義的であるに対し、フランシスコ会は、
革新的で、大衆的、あるいは平和主義のような印象があるというだけです。カトリッ
クの聖庁(ヴァティカン教皇庁)に楯突くのはフランシスコ会という印象がどうし
てもあります。

現在、聖座にあるのはフランシスコ教皇ですが、この教皇は、同性愛や同性愛者に
対しても寛容であらねばならないと考えているようで、ヴァティカンの旧来の方針
を変更しようと試みているが、保守的な司教団は、例えば、避妊などの問題でも、
あくまで伝統的な、古いヴァティカンの制度を維持しようとして、フランシスコの
努力も実らないというニュースが最近あります。フランシスコ教皇自身は、保守的
な立場だとされますが、どことなく、ヨハネス23世教皇に似た感じがします。教
皇は、名前が何故フランシスコか分かりませんが、フランシスコ会とは関係なく、
出身はイエズス会のようです。ただ、何か、フランシスコ会の雰囲気があるように
思える)。

最後に、スール・スーリールに戻りますと、彼女のフランス語の発音は、幾度歌詞
を見ながら聞いても、よく聞き取れないです。発音が不鮮明ということではなく、
何となく、奇妙なフランス語に聞こえる。[r] の発音だと、フランス語の [r] は、
[g] のようにも聞こえる、喉の奥の摩擦音のような場合と、喉の振動音のような二
種類があるのですが、彼女の発音は、巻き舌に似た振動音で、何か聞き取ろうとす
ると、頭の中が絡まってくるような奇妙な感じがします。単に、主観的にそう感じ
るだけですが。

-------------
添付画像:
上)『ドミニク』の歌詞
下)スール・スーリール


_ Miranda Welrech

 

What Is A Youth

 投稿者:Miranda  投稿日:2015年10月18日(日)02時13分12秒
返信・引用 編集済
 
タイトルの "What Is A Youth" というのは、或る歌の最初のラインであり、
またこの歌の題にもなっている。

これは、いまから半世紀前の映画である、1968年版の『ロミオとジュリ
エット』の作中挿入歌で、映画の中では、職業的歌手が、宴会の余興として
歌い、人々の喝采を浴びるという形で出てくる。メロディーが美しく、主題
曲という訳ではないが、事実上の映画の主題曲とも言えるものである。

1968年の『ロミオとジュリエット』は、ウィリアム・シェイクスピアの
同名の戯曲を原作に、ほぼ原作に忠実に造られた作品で、ロメオとジュリエッ
トの役は、この作品出演が映画デビューの、16歳のレナード・ホワイティ
ングがロメオを演じ、ジュリエットの方は、同じくこの作品が映画デビュー
の新人である15歳のオリヴィア・ハッシーが演じている。音楽はニーノ・
ロータ(Nino Rota)が担当した。"What is a youth" という曲は、作詞が、
ニーノ・ロータとなっている。

乙女(少女)を、maid という単語で表現し、また、古代から中世、近世、近
代に至るまで、夥しい詩人が使った「薔薇の花の比喩」を使っている処から、
また、苦さの比喩として、gall(胆汁)という古風な表現を使っているので、
わたしは、この歌詞は、おそらくシェイクスピアの詩で、中世英語で記され
ているのだろうと考えていたが、作詞者を調べると、Nino Rota で、現代人
であるので、古風な単語や比喩や言い回しを使って、中世風の歌詞を造った
のだと了解した。そこで、歌詞であるが、かなり長いが、その一部、最初の
二つの連を以下に示す:

What is a youth?
Impetuous fire.
What is a maid?
Ice and desire.
The world wags on

A rose will bloom,
It then will fade
So does a youth.
So does the fairest maid.


この歌詞を、どう理解するか、読むかというのが問題である。
インターネットで検索すると、様々な訳がヒットする。それだけこの曲が美
しく、歌の内容を知りたいという欲求が高いのだと個人的に推測する。
多くの訳では、この歌を、「若さとは何か」というように訳している。当然、
歌詞の最初のラインも、「若さとは何だろうか?」というような訳になる。

しかし、これはおそらく誤訳だとわたしは考える。中世英語ではあるいは、
文法が異なっている可能性を排除できないが、基本的に、youth という語は、
可算名詞の用法と不可算名詞の用法があり、可算の場合と不可算の場合で、
単語の意味が違っている。この歌詞の場合、明確に、a youth となっていて、
これは、youth の可算名詞としての用法である。可算名詞の youth は、「若
者、青年、若い男性」という意味で、「若さ」とか「青春」という意味は持っ
ていない。そういう用法・意味は、不可算名詞の youth である。

従って、この歌は、「若さとは何か?」という意味ではなく、「若者とは何
か?」というのが正確な意味である。また、そのように読まないと、歌詞の
意味が明らかにならない。「若さとは何か?」と訳す、あるいは、そのよう
に歌詞を理解すると、歌詞全体が、余りにも使われすぎた為、比喩が陳腐化
し、現代では、むしろ使うことを避ける、「薔薇の花の比喩・象徴」の伝統
的な意味開示に絡め取られてしまう。「若さをいかに誇っても、人は時間の
経過には抗えず、若さはやがて消え、老年へと人の定めは進行する」。これ
が、歴史的に夥しく使われた「薔薇の花の開花と、凋落の比喩」である。

しかし、考えてみれば分かるが、『ロメオとジュリエット』の物語は、「薔
薇の比喩」が示唆する、「若さは消え、乙女の美貌も衰え、抗えぬ時の流れ
のなか、人は老年へと進み、やがて死に向かう」という比喩や象徴が妥当す
る物語ではない。二人の物語は、薔薇の花で云えば、十全たる開花を前にし
ながらも、薔薇の開花の直前で、不幸にも死の定めに出逢うというものであ
る。つまり、「薔薇の花は開き、やがて凋れる」と歌ではうたっていても、
実際にはロメオとジュリエットは、開花する前に悲劇の死を遂げるのであり、
「やがて凋れる」ということは、物語には関係のないことである。

このことは、歌詞のなかに反復で二回出てくる、"Cupid he rules us all"と
云うラインの意味にも表出されていると考えられる。このラインを何と訳す
か、どう理解し解釈するか。一般に、「クピドが、愛や恋を決める」という
ような意味合いで理解されているようであるが、"he rules"という表現は、
かなり強い意味を持っている。「色恋はすべてクピド次第」というよりも、
この場合のクピド(エロース)は、人の生死を決める何かである。中世にお
いては、「死」は極めて身近なものだったという事実がまたある。近代から
現代にかけて、「死」の事実性を隠蔽するような文化が生まれたが、それ以
前にあっては、「死」は、身近で自然なことであり、様々な人の死を、当時
の人々は、子供時代から、実際に見、体験してきた。

それはとまれ、元の歌詞に戻る。インターネットで検索すると出てくる、多
数の訳の中の一つ、ある方が、最初の連をどのように訳しているのか、次に
引用してみる(著作権や、クレジットの関係もあるので、一連だけにする):

>若さって何だろうか? 衝動的なまでに激しく燃える炎?
>乙女って何? 氷と欲望のこと?
>世界は揺れ動き続ける


最初に述べたが、"a youth"を「若さ」と訳すのは誤訳だと言える。次に、
「乙女って何? 氷と欲望のこと」と訳されているが、この「氷と欲望」と
は一体何のことであろうか、英語の原文でも、「 Ice and desire 」である
ので、原文通り、忠実に訳していることになるが、しかし、「乙女とは氷と
欲望」とは、一体どういう意味なのか? このままの訳文では、意味が不可
解だとも言える。以下に、わたしの試訳(超意訳)を示します:

若者とは何であるか?
生の衝動に駆られる焔か。
乙女とは何であるか?
氷のなかで夢見る欲望か。
宇宙は否と云うのか、諾と云うのか。

薔薇の花は咲き、凋れる。
そのように若者の命は燃え、消え
麗しい乙女もまた花咲き、消える……


第二の連は「薔薇の花の比喩」であり、ここでは、あまり意味を持っている
とは言えないので無視する。問題は第一連である。この最初の連では、「若
者と乙女」という対比項が明確に表現されており、この若者はロメオ、乙女
はジュリエットと考えるのは、きわめて自然な読み方になる。「氷と欲望」
を、言葉を補い「氷のなかで夢見る欲望か」とわたしは訳したが、これは、
歌詞が暗喩している内容についての、次のような解釈から来ている。

まず、「乙女は氷と欲望」という言葉は、最初の「若者とは……焔」に明ら
かに対応している。焔が氷を溶かすからである。若者の「生の衝動に駆られ
る焔」は、終わり無く、また結果を考えない情熱の焔である。若者の焔は乙
女の氷を溶かす。そして若者の衝動・情熱は、乙女の欲望を励起し、恋愛と
は、このようにして生まれると言える。そしてこれがエロースの作用・支配
である。乙女はいわば、欲望を凍らせ、氷の中に閉じ込めている。他方、男
性である若者は、欲望を焔として燃え上がらせ、乙女の心のなかの氷を溶か
す。つまり、ここで、ロメオとジュリエットの出会いと、二人が、情熱の恋
に落ちる運命にあることを歌っていると言える。

他方、更に深く解釈し、意味を読み取ることができる。この物語は、都市ヴェ
ローナにおいて、代々、血で血を洗う対立を続けてきた、キャピュレット家
とモンタギュー家の宿命の争いが背景にある。ロメオ・モンタギューと、ジュ
リエット・キャピュレットの恋愛は、そもそも最初から成就しないものであっ
た。初めて出逢ったとき、二人がそれぞれに、相手が仇敵の家の者だと知っ
て、絶望感に襲われる。しかし、エロースの悪戯か、支配か、二人は恋に落
ちる。このような背景から、最初の連の歌詞を見ると、別の意味が浮かび上
がる。

「desire」という単語は、(肉体的・性的)欲望という意味がかなり強いが、
しかし、その意味に限定されていない。「望み、願い、希望」というような
意味範囲を持っている。そして、desireを、「肉体的欲望」という意味に限
定して解釈する理由もない。広い意味でdesireを考えると、乙女(ジュリエッ
ト)とは何か? 「氷とdesire」という句は、「氷のなかで夢見る願い・希
望」とも読める。あるいは「氷で閉ざされた心のなかの願い・希望」である。
単純に書けば「氷と希望」となる。この時、仇敵の家の娘と知って、なお、
情熱の焔故に、愛へと進むロメオは、累代の敵対関係という「氷」を溶かし、
敵対関係のなかに閉ざされ、宿命の氷にあったジュリエットの「心の願い」
を、その情熱によって溶かし、敵対関係をも解消し、「願い」を実現する者
として現れる。

そして、最初の連に続く第二の連の「薔薇の花の比喩」は、このような解釈
からすると、別の意味の暗喩となる。「希望である薔薇の花は開く。しかし
それは散り、消え去る定めにある」。キャピュレットとモンタギューの仇敵
関係を解消し、和解したいという二人の願いは「華開く」、しかしそれは
「散る定めにある」。また、若者の情熱の焔は、乙女の氷を溶かし、心を解
放し、愛と和解の花を咲かせるが、焔はそこで止まらず、ジュリエットも、
若者、即ちロメオも焼き尽くすまで燃えるという暗喩の示唆となっている。

このようにして、この「What Is A Youth」という歌詞は、その最初の連にお
いて、ロメオとジュリエットの愛を歌い、仇敵関係にある二人の家のあいだ
の争いを語り、やがて悲劇に終わる二人の運命も歌っていることになる。こ
のような解釈が成立すると思える。

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添付画像:
上:映画ロミオとジュリエットのシーン
下:映画のパンフレット


_ Miranda Welrech

 

となみむか さんについて

 投稿者:Miranda  投稿日:2015年10月13日(火)08時11分0秒
返信・引用 編集済
 
となみ・むかと云う自称「エロ漫画家」がいます。エロ漫画家とか自称し
ていたのはだいぶ前の話で、いまはそうでないのかも知れませんが。

この人は1990年代頃に活躍していた漫画家で、単行本が十冊ほど出版
されています。最近は商業誌には書いていないようですが。この人は、男
性向けエロ漫画を書いていた人ですが、絵柄を見ても話の構成を見ても、
「男性向けエロ」とは思えない部分がある。B5版タイプの標準的な漫画
単行本だと、男性向けに近いというか、そういう方向に話を作ろうとはし
ているが、どこか不自然である。となみ・むかは、女性ではないのかと思
えたのですが、自分で「エロ漫画家」と云っているので、やはり男性なの
かと思った。しかしやはり不自然である。

初期の短編集に、1992年のワニマガジン社から出ている、『おじゃま
します』という本があるが、この本の話は、三人の姉妹が(四人のような
気もするが、三人しか登場人物が記憶に出てこない。三人なのだと思う)、
ランジェリーショップを経営して一緒に住んでいるという話で、背景は同
じシリーズ作品である。実際には、ランジェリー店を経営しているのは長
女で、あとの二人はまだ学生・生徒で、年齢的には、長女が22歳位、次
女が高校生で16歳位、三女が小学生で10歳位で、相互の年齢がかなり
離れている。状況が分からないが、両親がいないので、三人で暮らしてい
るということであるが、長女が、母親のような役割を持っている。
各話で、特定のランジェリーに焦点を合わせ、ランジェリーを紹介しつつ、
ほのぼのとした話が展開するという形で、幾らかエロティックではあるが、
扇情ポルノ・エロ漫画ではない。

これ以降の単行本の漫画は、何とか男性向けエロ漫画を造ろうとしている
ようであるが、やはり何か違う。先に述べたように、作者は女性のように
思えるが、エロ漫画家と自称しているので、男性なのかとも思ったりした。

2000年前後に、同人誌の方に活動が移って行く。やはり、あの作風で
は、商業エロ漫画では売れないのだろうと思ったが、事情は知らない。
最初、Inner Dress という同人誌を出していたが、これは3号までだと思
う。他に散発的にテーマ同人誌があるが、ずっと一貫して、年に二冊発行
しているのが、『NOVARA』という同人誌で、これは現在、29巻まで出て
いるはずで、また、5巻を一冊に纏めた、『NOVARA下着図鑑』というかな
り厚い本が、上・中・下・続と四冊有り、今年には、続2が出ているかも
知れない。
この「NOVARA」は、初期の『おじゃまします』と同じような趣向で、一巻
一巻で、特定の種類の女性用下着とかランジェリーを扱っていて、説明絵
が入っていて、目的・機能・形態、そしてヴァリエーションや関連情報を
載せている。
随分詳しいというか、どこから、こんな情報を調べてくるのだろうかとい
う色々なことが絵入りで説明されている。
となみ・むか氏は女性だと確認したのは、この同人誌のどの巻だったか、
複数の記事を読んでいると、女性だとは書いていないが、そう考えないと
おかしい記述があるので、男性ではないと云う結論に達した。

それは、ピンクハウスのドレスかロングスカートを着て、階段を降りると
きには注意しなければならないというような雑談で、それを読むと、女装
しているのではなく、普段からドレスとかスカートを日常的に着用してい
るというのが分かる。

となみ・むかは、「女性の百合」志向があるとわたしは思うが、作品の上
のことなのかも知れない。しかし、「NOVARA」に描かれている同人誌での
挿絵のモデルの少女の絵を見ると、何かの性的志向があるように思える。
(この話は、続きます。「ピンクハウス」とは何かというのと、それに関
する、面白い(というと失礼ですが)、興味深い経験譚があり、そういう
ことがあるのかと思います)。

----------------
添付画像説明:
上)『おじゃまします』表紙
中)『NOVARA 20』表紙
下)『NOVARA下着図鑑上』黄色く見える文字は、これは金箔調印刷です。


_ Miranda Welrech

 

世界の大思想・ベルグソン

 投稿者:Miranda  投稿日:2015年10月10日(土)19時01分44秒
返信・引用 編集済
 
いま、あるオークションに、河出書房の「世界の大思想」全45巻
というのが出品されています。(発行所が、河出書房新社になって
いますが、この頃、「新社」に名が変わったのかも知れません)。
とまれ、この「大思想」全巻は、その昔、たいへん欲しかったもの
で、いま出品されているのは、15,000円で落札できそうなの
で、この値段なら、購入は可能なのですが、しかし、45巻も、こ
んな大型の本を購入したとして、どこに置くのか、という問題があ
ります。本を置く場所がありません(オークションに出ているのは、
1973年版となっています)。

しかし、本を積み重ねて、背中の部分が見える写真があるので、辛
うじて読める文字を読んで見ると、次のような人の著作で構成され
ています:

上段右から左へ:ヘーゲル2冊、カント2冊、スピノザ、パスカル、
デカルト、ベーコン、モンテーニュ2冊、アウグスティヌス・ルター、
アリストテレス、プラトン、仏典、孔子・孟子・荘子等。
中段右から左へ:ウェーバー2冊、ミル、レーニン、エンゲルス、
マルクス5冊、ルソー、モンテスキュー、スミス2冊、ホッブズ。
下段右から左へ:毛沢東、トインビー、マルロー・サルトル、サル
トル、バルト、ヤスパース、ハイデッガー、デュウイー他、ラッセ
ル、ベルグソン、フロイト、ニーチェ2冊、キルケゴール2冊。

この一覧を見ると、1960年代末の時代を表していると思います。
中段のレーニン・エンゲルス・マルクスなどは、無論、不要です。
マルクスの『資本論』が、世界最高、歴史上最高の著作だとか云っ
ていた人たちがいるのですが、マルクス5冊というのは、4冊が
『資本論』で、あと一冊が『経哲草稿』だと思いますが、背文字は、
「経済学哲学論集」と読めますから、『経哲草稿』+色々なのだと
思います。マルクスに5冊というのは、別格扱いでしょう。また実
存主義三人衆が並んでいます。ニーチェ2冊、キルケゴール2冊と
いうのは、構成としては、少し偏っている。一冊づつでよいとか思
う。レーニン、エンゲルス、毛沢東がそれぞれ一巻づつというのは、
時代の表れでしょう。とても、「世界の大思想」に入れることがで
きるような思想家とは云えない。(もっとも、昭和初期に出た、世
界の大思想集とかいうようなシリーズでは、オットー・ヴァイニン
ゲルの本が入っているので、流行とは恐ろしい。ヴァイニンゲルの
本が、世界の思想を代表する本だとはとても思えない)。

上段は、いいのですが、ヘーゲルは2冊では足りない。カントの一
冊は、『純粋理性批判』であるが、これは岩波文庫版が訳がもっと
も良いとされる。スピノザは、『エティカ』なら4種類以上訳本を
持っている。パスカル、デカルトは常識的に持っている。モンテー
ニュは、わたしの年齢だと、読む本だと思うが、この全集版の本の
必要はない。アウグスティヌスは、『告白』と『神の国』がまず、
メインとなりますが、両方とも別の訳本を持っている。アリストテ
レス、プラトンは、持っているのが通常で、全集を持っているし、
それ以外にも色々持っている。仏典は結構たくさん持っている(読
んでいないですが)。例えば『法華経』とか(この本は、是非、読
まねばと思っていて、結局、読んでいない)。中国諸子百家は、一
冊はコンパクト過ぎます。ウェーバーは、探せば色々持っているは
ず。ミルはわたしは不要。ルソーは『エミール』であるが、うんざ
りします。モンテスキューは、不要。スミス、ホッブスも不要。下
段は、バルトは高名な神学者ですが、あまり興味が無いです。わた
しには、むしろマルセルが合っていると、昔アドヴァイスをもらっ
たが、マルセルとは縁がなかった。いまから縁ができるかも知れな
いですが。ヤスパース、ハイデッガーは不要というか、主要な本は
持っている。ニーチェは、二冊ではなく十冊ぐらい欲しい(『ツァ
ラトゥストラ』は無論持っているが、色々な著作がある。ハイデッ
ガーに似たところがある)。キルケゴール2冊というのも、時代の
流行だと思う。実存主義との関連性で、全集に入っているのだと思
う。ラッセルは何で入っているのか分からない。ヴィトゲンシュタ
インを入れるべきだと思うが。

そこで、残るのがベルグソンで、「生の哲学」を代表して入ってい
るのだと思います。
そして、河出書房版のこの「世界の大思想」のなかで、我が青春の
みぎり、購入して読んだのが、このベルグソンの巻です。
上の検討から、マルクス、レーニン、エンゲルス、毛沢東などは、
完全に不要とすると、残りの巻は、不要な本か、持っている本にな
る。つまり、このオークションの「世界の大思想」は不必要だと云
うことになります。関心のある本はすべて訳本を持っているし、不
要な本は不要です。

ベルグソンの巻は手元になく、『創造的進化』とか、もう一度読み
直す必要があると痛感します。わたしの考えは、エックルスが基本
にあるが、ベルグソンもルーツにあるのです。
ベルグソンの巻だけ、Amazon のマーケットプレースで購入したので
すが、半世紀前の本とは思えない綺麗な函で、いささか驚きました。
1967年発行なので、48年前の本です。
この巻には、『創造的進化』と『時間と自由』が入っているのです
が、『創造的進化』を読んで、世界観が一変した、と云うのは大袈
裟ですが、時間をこのように捕らえ、人間の生きる時間を、このよ
うに把握するというのは、一種の驚異だった。時間は、ニュートン
時間でしか考えていなかったので、非常に斬新で素晴らしい時間観
に思えた。

ところで、『時間と自由』の方も読もうとしたが、全然面白くない
というか、読む気が起こらなかった。
当時は、何も知らなかったので、分からなかったが、いま本を手に
入れて、訳者の名前を見てみると、『創造的進化』が、松浪信三郎
・高橋允昭、そして『時間と自由』の訳者が、中村雄二郎。松浪先
生の訳だったのかと思うと納得が行く。中村雄二郎の訳だったのか
と識ると、面白くなかったのは、そうだったのかと(強引に)納得
が行く気がします。

『創造的進化』を読み直そうと思いつつ、何時の日になるのか。青
春は美しき(ヘルマン・ヘッセ)、されど人生は短い(セネカ)。


---------------------
添付図:
上)オークション出品の「世界の大思想」背表紙
中)オットー・ヴァイニンゲル著『性と性格』
下)アンリ・ベルグソン肖像


_ Miranda Welrech

 

 投稿者:みなと  投稿日:2015年 9月21日(月)21時12分25秒
返信・引用
  ミランダさんは優しいひとなのか
冷たいひとなのか、よくわかりませんね。
メールを返してくれたかと思えば、
半月も放置したり。
グノーシスの友となりたいのに。
 

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