teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

【重要】teacup. byGMOのサービス終了について
 <思いやりのあるコミュニティ宣言>
 teacup.掲示板は、皆様の権利を守りながら、思いやり、温かみのあるコミュニティづくりを応援します。
 いつもご協力いただきありがとうございます。

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

  1. 足あと帳(0)
スレッド一覧(全1)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


2021年新春

 投稿者:南山鳥27  投稿日:2021年 1月21日(木)09時51分21秒
返信・引用
 
2021年になりました。ご挨拶が遅れました。

コロナ・ウイルスが猖獗をきわめる昨今、100年前のスペイン風邪
にも似た、歴史的な大事件のさなかにあるというべきです。ただ、ど
うも実感が湧かないです。とはいえ、昨年2020年は、やはり、こ
の武漢コロナウイルスの故に、様々に生活の不便があり、体調なども
影響を受けたと思います。なにより、外出しなくなったので、運動不
足などをはじめとして、色々な影響が徐々に出てきたという感がああ
ります。

先行き不明な今年ですが、厄災の終結を心から祈りたくも思います。

 寒中、お見舞い申し上げます

        

みなさまのご多幸をお祈りさせて頂きます。

Sophia 2021
 
 

ある方の発言を非表示にしました

 投稿者:Miranda  投稿日:2020年 2月19日(水)22時39分28秒
返信・引用
 
>今まで自分が書いてきた投稿を
>すべて削除してください。

>お願いします。

わたしは、「削除」は原則的に行いません。非表示にします。
ただ、いったん非表示にした投稿を、再度、表示にしたことは
ないとも思います。

わたし自身の投稿は残します。答えている相手の投稿がないの
は、非表示にしているためです。

いろいろなことがありましたので、こちらの掲示板での話を、
忘れていました。

_ SPH、
 

Re: 替え歌

 投稿者:Miranda  投稿日:2020年 1月 3日(金)23時40分7秒
返信・引用
 
> 年が明けましたね。
>
> 尾崎豊の『卒業』という曲はご存じですか?

尾崎豊という名前には記憶がありますが、
『卒業』という曲はまったく知りません。
というか、尾崎豊という人自身について
よく知らないというのが、本当のところ
です。

知っていることは、尾崎は、二十代だっ
たのか、同世代のアイドル的な存在の歌
手だった。シンガーソングライターだっ
たのではないかと思うが、そう思うだけ
です。
彼の名前が記憶に残っているのは、尾崎
が、自殺とも考えられる奇妙な、という
か、ある意味不自然な死に方をしたこと
で、ファンのあいだでいろいろなことが
語られたということから、そのことが、
記憶に残ったということです。

歌自体は、斬新というか、何か実存のあ
りようを切実にうたったようで、これが
熱狂的なファンを造ったということにも
なるのだと思う。ただ、わたしは、そう
いうことに関心がなかった。何か歌詞な
りを読み、その歌を聴いていれば、何か
違ったのかも知れないが、そういうこと
もなかった。(と思う)。
流行歌手とか、その種の類いは、わたし
はどちらかというと、嫌いだとも言える。

例えば、ビートルズはビッグネームだが、
この名を聞くと、何か金儲け主義の偽善
を感じる。Let it be とか、メロディや
歌詞は、どことなく好きであるが、これ
も金儲け、世俗権力迎合の欺瞞があるよ
うにも感じられる。日本の芸能界とかは、
もっと次元の低い、銭儲けしか頭にない
人間が最低の偽善欺瞞を働いていた世界
としか思っていない(思っていなかった
ようなふしが、今になると思える)。

森田童子という謎の歌手の歌は好きだっ
たが、彼女の歌のなかにさえ、拝金主義
の欺瞞が忍び寄っており、彼女の歌に対
する論評を見ると、でたらめも甚だしい
とも感じる。
学生運動当時の、敗北感をうたっている
とか云う主張が大勢を占めているのでは
ないかとも思うが、違うと思う。全然別
のことを歌っている(森田自身は)。

中島みゆきの歌も好きであったが(いま
でも好きだと思う)、何か微妙な、ある
いは逆説的に、異様な昏さがあり、メロ
ディが美しいので、それに紛れるのかも
知れないが、どうも何か奇妙な感じがし、
それがまた好きな理由でもある。
(ある歌の歌詞のなかで、「故郷(おく
に)はどこですか」と尋ねられて、「ま
だありません」と俯いて答える、という
のがあったが、いやあ、すごい暗いなあ、
と思う反面、事実ではないか、と思って
言葉にできない何かを感じた)。

----------

尾崎豊は、自殺したのではないかという
話で、関心を持ったが、それだけだった。

もう一人、これは別に芸能人でも有名人
でもないが、非常に優秀な少年がいて、
神童とか天才とか呼ばれていたが、彼は、
何かを悟った、知った、とか書き残した
後、事故で死んだ。しかし、事故にして
はおかしいことがあり、意図して計画し
た自殺ではないかという説が出てきた。
この人の日記というか、いろいろな考え
などを書いたノートは、死後出版されて、
ある程度売れていたようだが、別に買っ
て読む必要もないだろうとも思った。

高校のときの、かなり親しい知人で、高
校卒業の前、1月か2月に、亡くなった
人がいた。死因は「心不全」だとされた
が、それから十年ほどして、自殺学の研
究者という(これは本当の専門家、自称
ではない)人と話をしていると、それは
「自殺だ」とはっきり述べた。まさか、
と思ったが、振り返ってみると、様々な
ことが、自殺であったことと整合する。
いまでも、病死か自殺か判断できないが、
やはり自殺だったのだろうと、考えてい
る。
まだ、二十歳にならない年齢で、何を考
えていたのだろうか、と思うが、分から
ない。ただ、もし自殺なら、考えに考え
た上での結論だったのだろうと思う。

何か、関係のない話になってしまったが、
尾崎豊という名前で、連想するというか、
考えることは、このようなことになる。

肝心の『替え歌』ですが、どうも納得で
きない。(貴君の考えだと、説明しても、
どうどう巡りになるように思う。グノー
シスは、反宇宙的二元論とか、図式を提
示して主張するが、図式を信仰する訳で
はない。反宇宙的二元論が出てくる、実
存状況が重要なので、その状況理解が、
グノーシスで、グノーシスは図式を作る
が、図式を信仰しない。図式など、ある
意味では、幾らでも別のものと取り替え
ることができる)。

_ SPH
 

新春の挨拶

 投稿者:Miranda  投稿日:2020年 1月 3日(金)22時44分27秒
返信・引用
 
すでに1月3日となってしまいました。

年末はいろいろと多忙なこともあり、冬至聖日の挨拶
も、新しい年の言葉を準備する余裕もあまりありませ
んでした。

いまなお、あれこれと、俗世の煩悩にまみれた些事に
こころが安らかとは言えない状態ですが、ともあれ、
新たな年を迎え、どなたがこの掲示板を見ておられる
のか分かりませんが、各位に新年のご挨拶をお送りし
たく思います。

    謹 賀 新 春

ちなみに、わたしは「謹賀新年」ではなく、「謹賀新
春」と書くのが普通です。「新しい年を謹んで言祝ぐ」
ではなく、「新しい春を言祝ぐ」という表現です。

新春は、冬至聖日の次の瞬間が新春となるからで、新
たな一年は、どうなるのか、まったく行方が分からな
いが、少なくとも、新しい春は、生命の再生復活の地
上的な顕現であり、これを言祝ぐというのは、実際的
には意味があるということになります。

と云って、輪廻転生とか、生命の生まれ変わりとかを
信奉しているのではなく、時間の純粋持続性の歴史的
なエピファニイが、冬至聖日に続いているという認識
です。

「時間の純粋持続性」の「歴史的エピファニイ」とか、
何を抽象的な意味不明なことを述べているのかと云う
ことになりますが、この辺の「時間」についての考え
方、あるいは、時間とは何かの探求が、限りがないと
いうか、「よく分からない」ということでもあり、説
明をしていると、未完の長々しい論考文書になるので
はないかとも思う。

とまれ、新年そうそう意味不明な言葉で、申し訳ない
です。

2020年(令和二年)、日本はいよいよ内憂外患が
顕著となり、世界の文明の趨勢・趨向・行く末も、羅
針盤のない、テラ・インコグニータへの旅ともなって
いるとも云える。

個人実存において、社会状態において、文明の転換の
まさにさなかにおいて、各位、新たな春、それに続く、
新たな年、2020年が、実り豊かな年であることを、
祈念させて頂きます。

_ Sophia Mirandaas
 

Re: デミ嫌い

 投稿者:Miranda  投稿日:2019年12月24日(火)13時20分39秒
返信・引用
  > No.125[元記事へ]


色色な考えや問いかけについて、深く考える必要があるので、
簡単に、どうであるか、というのは述べにくくなります。
いくつかの問題を眺めてみると:

>霊とはなんなのでしょう。
>肉体がなくても意志と形と音のあるものが霊魂で、
>それが高次元にいったとき光のみになったものが霊なのでしょうか?

>僕は実は親友を白血病で亡くしています。
>その親友が死後四日後に僕にさよならを伝えに来てくれたのです。
>あれを霊魂というのだと思います。
>その体験がなかったら死後の世界を疑い無く信じることは
>難しかったかもしれません。

「霊」とか「魂」とは何かというのは、端的には「分からない」
ということになると思います。ただ、この「分からない」という
のは、「霊」とかは古代人の空想・妄想や錯覚だったということ
ではなく、現在においては、古代以上に問題が大きくなっている。
色色なことが知識として蓄積され確認されてきた為、「何である」
という簡明な説明や定義が難しくなってきたので、「分からない」
というのが、誠実な知的態度であると思っています。

「自己を自覚する意識の存在」は何なのか、というのも、幻想だ
と云う言説がある他方で、もっと深度のある実在や認識に係わる
真に重要な問題であるだろうと思う。

「死者の霊」がヴィジョン(幻像)に現れるというのは、その現
れた「死者」が、「死者の霊」なのか、あるいは別の現象なのか、
これも判断が難しくなっている。

死者の霊というのは、自己の意識や魂のなかにある、誰かの存在
イメージ像が、顕在的な意識の表層に現れてきたものだというの
が、もっとも無難な妥当な考えだと思う。

11月のはじめに、ある方が亡くなられたが、三週間ほどして、
非常に印象的な夢で、その方が現れた。ただ、その方は、亡くな
られた後、幾度か夢のなかに現れていた(夢をみていた)と思う
ので、夢に登場するのは、不思議でも何でもない。
カール・ユングの『自伝』の終わりの方の「死後の生」という章
を見ると、夢において死者の霊が登場したとか、覚醒した意識で
のヴィジョンで、死者が登場した。あるいは、ヴィジョンにおい
て、ある親しい人が、この世を去る別れを告げに来たというよう
な記述が色色とあります。

わたしは、それらは、個人の魂のなかの他者の霊・魂の印象の顕
現だと解釈するのが、もっとも無難だと考えます。ただ、この解
釈は、「わたしの魂とは何か」という問題があるのです。「わた
しの魂」というのは、「わたしの」魂なのか、それとも、宇宙の
魂・霊が、わたしという自覚意識の構造枠を通じて、現れている
のが「わたしの魂」なのではないか、という考えも成り立つ。

そうすると、「死者の霊」とは、わたしの魂の記憶にある像が顕
現しているという理解は、「わたし個人の魂=心の現象」という
限定された解釈ではなく、「わたしの心の現象」の背景に、宇宙
の霊や魂があるということになり、「個人の心の現象」というよ
うに単純に考えることもできない。
元々、「わたしの魂」は、宇宙の魂、あるいは、別の霊魂のわた
しを通じた現れであると言うのは、古代からそのような解釈はあ
るのであり、特に、現代において顕著となった考えではないが、
意識や心の働きが、物質の構造体と見なされる「大脳の生理的な
機構」と非常に密接な関係を持つことが、分かってきている現代
であるから、逆に、このような宇宙的な意識・霊の個人を通じて
の顕現という考え方は、今日的な知識を背景として、より深く意
味を表してきた、というのが、わたし個人の考えです。ただ、ど
うも大脳生理学や人間意識の研究を行っていると称している人た
ちは、大脳の物質現象に、意識や霊の現象は還元できるというよ
うな考えを持っているように思える。

意識とは何か、というのは、実際は、ますます分からない何かに
なっているというか、知見が増えれば増えるだけ、分からないこ
とがますます増えてきていると思える。

精神の現象は、物質大脳の神経生理学的な現象には還元できない
と思う。しかし、だからと云って、超越的な霊の世界が、単純に
肯定できる訳でもない。霊の世界があるとして、それは何なのか、
こちらの問題の方も、きわめて難しい話になっていると思う。

人間の思考力では分からない、ということは、人間の思考力を超
えた、独断的な結論が有効だという意味ではないのです。「霊と
は何か」古代の人はより平易な理解を持っていて、それが何を指
すのか、現代人よりも、よく分かっていたというのは、古代の人
の方が知恵があったという意味ではなく、現在においては、古代
の人が知っていたことより遙かに多くの知識や知恵が知られてい
るため、あまりにも色色な可能性が考えられるので、分からない
ということが、より強く自覚されるということです。

人は知識が増えると、段々とものごとが分からなくなってくる。
この状態では不安であるというので、知識を捨てて、より単純な
独断に帰ればよいとはならない。

どれだけ考えても、明晰な答えはないので、考えることは無意味
であるとか、無駄であるとはならない。考えることや問いかけを
やめれば、真実が見えてくるかというと、そういうことはない。
違った方向や方法で考え、問いかけを試みるというのは、ありえ
るが、考えをやめれば、それだけのことで、答えがある訳ではな
い。

仏教の「禅」の考え方に、言葉による思考では、真実は把握でき
ない。思考を脱して、直観の真実開示を待つことが、真の知恵へ
の道だという「考え」があるが、これは、論理的な思考や問いか
けをやめると真理が見えてくると云うのではなく、別の方向から
問いかけてみる、という「視野転換」の問いかけの方法だと思い
ます。
仏教の哲学でも、キリスト教の神学でも、人間の理性の限界が説
かれているが、直観は、理性による反省を経なければ、妄想にし
か辿り着かないという真実もあると思う。妄想なのか、真実の洞
察なのか、どこに境界があるのか、定かではない。定かではない
というのが、真実だと思う。トマス・アクィナスの「至福直観」
は、この世にあって生きている人間が、そのような「真実直観」
を持つことができるという訳ではない。全能の神が存在するとし
て、神の直観に部分的にでも与れるなら、存在の謎や真実も、ま
た明晰に開示されるだろうと云うことで、生きて、この有限の思
考力や、有限の直観の次元にいる人間が、神の直観真実を語って
も、その内容は、神の真実直観ではない。

>陶芸家が無になって作品づくりに没頭している無我の境地と、
>達磨の無我の境地とは似て非なるものであるように、
>違法薬物のサトリとグノーシスの覚りとはまったくの別物だと思います。

覚醒剤やLSDによる、精神感じにおける神秘体験や真実直観体
験に言及しているのは、それらは「別のことのように思える」し
かし、何が別なのか、何が異なるのか、これ自体が、明確に分か
るものではないから、強調的な例示として述べているのです。

Aという人が、例えば、禅の修行を三十年間続けて、ある境位に
達した、つまりある真実直観を得た。Bという人が、禅の修行を
三十二年間続けて、やはりある境位に達し、ある真実直観を得た。
ところが、AとBで、話し合う、あるいは論じあうと、その真実
直観の内容が異なっていて、互いに相手の直観は妥当でないよう
に思える。AとBで、互いの境位について、それぞれに悟りある
いは、直観を得たと云うことで、納得が行くならそれは問題とし
て表に出てこない。しかし、違っている場合、互いに認められな
い場合、あるいは一方が他方を認めない場合、どちらの到達境位
が「ただしいのか」という問題になってくる。

「死後に人はどうなるのか」様々な考えがあると列挙したと思う
のですが、ではどれが妥当なのか、どれも、それなりに妥当なの
か、どう考えればよいのか、よく分からない。

もう一度繰り返すと、

>陶芸家が無になって作品づくりに没頭している無我の境地と、
>達磨の無我の境地とは似て非なるものであるように、
>違法薬物のサトリとグノーシスの覚りとはまったくの別物だと思います。

「まったくの別物」だというのは、その通りでしょう。しかし、
どちらも「精神の現象・意識の現象」であるのも事実であり、こ
ちらが、「真実の体験」で、あちらは「偶然の錯覚体験」である
という判断は、何によって裏付けられるのか。

無数の可能な解釈があるが故に、LSD幻覚体験で、悟りが開け
ると云っているのではなく、LSDの幻覚体験は、ただの幻覚で
真実の悟りではないというのは、誰が判断できるのか、何を根拠
に判断できるのか、これは自明なようで、自明ではないと述べて
います。
自明でないということは、LSD幻覚体験で、悟りが開けると述
べているのではないのです。

問いかける主体としての理性自我は、無限の懐疑と、無限の真実
可能性のなかで、宙吊りになっている。この状態は、「分からな
い」という状態であるが、それは考え・問いかけることを放棄し
た状態とは別の状態である。

貴君が、プレーローマの真実や、智恵=愛を直観したというのな
ら、それは、その直観の深さに応じて真実であろう。それを尊重
はするが、しかし、究極的な真実は、主観的な直観にはない以上、
別の直観も、尊重せねばならない。できるなら、互いの真実直観
あるいは、問いかけのヴィジョンに共通性があることが望ましい
が、共通性があっても、それが最終の真実とは言えないし、問い
かけは、どこまでも続いていると云うことが真実であろうという
ことになる。

以下の話はどこまでが本当か知らないが、あることを教えてくれ
る。神秘主義思想家の教師グルジエフの臨終において、同じく、
神秘主義思想の探求者であるウスペンスキーは、真実を知ってい
るなら、死ぬ前に教えろと、グルジエフに迫った。グルジエフは
それに答えないで世を去った。グルジエフは、真理を知っていた
が、ウスペンスキーには臨終においても教えなかったのか。ある
いは、グルジエフは真実を知らなかったので、教えようがなかっ
たのか。これは、どう考えればよいのか。

グルジエフもウスペンスキーも、宇宙の真実探求に生涯をかけた。
彼らはそれぞれに、真実と称する教え、あるいは探求の成果を述
べた。それらは不完全だったのか。(不完全であったからこそ、
ウスペンスキーはグルジエフに問い詰めたのであろうし、不完全
であったからこそ、グルジエフは、生涯、探求を続けたのであろ
うが、なお、その最終的な到達は、彼らだけが知っていることで
あるとも言える)。

釈迦牟尼が、宇宙は無限であるのか、時間は永遠に続くのか、と
いうような超越的・形而上学的問いに対し、答えなかった、いわ
ゆる「無記」を貫いたのは、釈迦牟尼はその答えを持っていなか
ったからなのか。また、あるいは釈迦牟尼は答えを知っていたが、
それが人の真実直観や救いにおいては、役に立たないので、答え
なかったのか。ここでも色色な解釈がありえる。

考えるべきこと、話すべきこと、語るべきこと、語り合うべきこ
とは、まだまだ幾らでもあるように思います。わたしは、しかし
「分からない」というのが、率直な所です。

懐疑と真実の無限の可能性のあいだで宙吊りとなっている。これ
は問いかける知の人の宿命であるとも思う。しかし、何かの基盤
において、そこから展望できる、「いまの真実」というのは、何
ほどかの範囲で、語ることができるのではないのか。

例えば、

真理をたずねていくなか、自殺の考えが浮かばないということは、

「思い浮かばない」のではなく、そもそも「自殺」ということを
真剣に考えたことがない人は、真実の探求者と言えるかどうか疑
問だとも言える。思い浮かばないのではなく、出発点に自殺が是
か非かの問いがあり、自殺すれば、問いから抜け出すことができ
るのかも知れないが、問いかけるわたしの理性主体がなくなる。

「わたしは何故あるのか・存在しているのか」と尋ねている者が、
自殺して、それで何が分かるのか。人間は、永遠に生きることを、
自分で決めることはできないが、死ぬことは、自己の判断で可能
なようである(常に可能かどうかは、分からない)。つまり、自
己の意識・精神存在を自覚する者は、自己に何ができるかを考え
るのであり、「自殺できる可能性を持つ自己を意識する」。人間
の存在の特徴として最初に気づくことの一つは、人が死ぬ存在で
あるだろうこと、その死を自己で選べる可能性を持つということ
である。

_ SPH
 

Re: 目的と過程と

 投稿者:Miranda  投稿日:2019年12月22日(日)03時39分52秒
返信・引用
  > No.122[元記事へ]


> ミランダさんにお聞きしたいことがあります。
>
> すでに心はプレーローマに住み、至高者への回収が決まった霊は、もう肉体に宿っている必要も意味もない。
> だから、そのひとはとっとと自殺してもよいと思いませんか?
> また、子孫を残さないということも正しい行為ではないでしょうか?
> デミウルゴスへの不服従の証しにもなると思うのです。
> いかがでしょう?


こんんちは。難しい問題を尋ねておられるので、考えていたのです。
とりあえず、ここでの問いかけについて、基本的にわたしの考える所
を述べさせて戴きます。(より、詳しく言葉を交わさなければ、ある
言葉で、何を意味しているのか、違った内容を概念している場合があ
ります。あるいは、このような認識の内容確認を拒否する考えや立場
の人もいるのが事実です。「自明性の欠如」というのは、精神医学の
概念ですが、「欠如」というよりも、「不確実さ」はきわめて一般的
な事態で、互いに話をしていて、そこにプラグマティックな意味で、
支障がなければ、互いに語っている内容が異なっていても、問題がな
いと云うのが、かなり普通の考え方です。しかし、ある種の問題は、
何を意味し概念しているのか、確認がなければ、話がすれ違うだけに
なります)。

というような前置きですが。
まず、先に「シャイン(幻象・仮象)」ということを書いたと思いま
す。「シャイン」というのは、存在するように思えて、実際は存在し
ない「もの・こと・事態・構造」のことです。

「プレーローマ」、「アイオーン」、「デーミウルゴス(造物主)」、
「実体としての悪」、また「霊と肉の二元存在項」、こういったもの
・事態・構造の概念は、紀元、2,3世紀の地中海世界での文化水準
に適合した「世界把握・世界の像」として、想定(措定)されたもの
です。「措定された」というのは、「実存在」として自明ではないと
云うことです。ただし、このような概念枠、構造設定で、人間の存在
状況をモデル化することは、現在でも有効な場合があります。

しかし、例えば、「宇宙・世界(コスモス)」とは何か、と考えても、
紀元2,3世紀の人が知っていた・認識していた「宇宙」の像は、現
在では、そのままでは有意味ではないと云えます。

グノーシスの「反宇宙的二元論」においては、「宇宙」とは何か、と
いうことは、本質的に重要なことになります。その「宇宙」の概念、
存在像が、現代と紀元2,3世紀では明らかに異なっていると思う。
また、「二元論」においても、「肉体と霊」の二元論と云っても、霊
とは何か、現代においては、必ずしも自明なものではない。かつては、
「霊」というものは、確かな何かだと考えられていたかも知れないが、
今日において、霊とは何かと尋ねると、答えが明らかではない。

「反宇宙的二元論」は、「秩序宇宙一元論」に対するアンティテーゼ
として、何かの具体的な意味を持っていた。意味喚起作用があった。
現代においては、宇宙の実体的な存在は、「物質」であると考えるの
がモデル的に、もっとも一般性があると思える。そこに山があるとか、
建物があるとか、犬がいるとかは、物質実体が存在すると考えるのが、
共通理解可能な解釈だと思う。(ただし、このような世界のモデルに
対し、同意しない人もおられる)。

しかし、それでは「物質実体」とは何なのか。実はよく分からない。
物質は、結晶分子の集合としてある。ガラスなど、非晶質のものもあ
るが、ほぼすべての物質は、結晶の立体構造として把握される。そし
て、結晶分子は、原子の結合構造として把握される。原子は、電子、
陽子、中性子などの素粒子から構成される。素粒子は、今日の標準モ
デルでは、クォークから構成されている。クォークとは何なのか。超
弦モデルが提唱されているが、超弦は、一つの可能性のあるモデルで、
クォークの構造は、現在、なお不明というのが正しい。

物質が存在実体であるとして、ミクロのレベルで、物質存在のありよ
うを尋ねて行くと、分からないということになる。また、マクロのレ
ベルへと問いを向けると、宇宙は、200億光年の四次元超球体なの
か、あるいは、もっと多次元、多計量の数千億光年のスケールを持つ、
何かなのかも知れない。「時間」とは何かというのも、よく分からな
い。「全能の神」は、時間とは何か、空間とは何か、物質とは何か、
霊とか肉とは何か、すべて知っているはずである。あるいはアイオー
ンの超英知知性存在は、そういった問いの答えを持っているはずだ。

しかし、これは、そのような期待あるいは仮定で、空間や時間や物質
や精神、霊、魂とは何か、分かっている訳ではない。

古代の人々は、デーミウルゴスが「悪の世界・不完全な世界」を造っ
たと述べれば、それで、納得が行く人がいたかも知れないが、現代の
我々は、もっと豊かな世界についての知識を持っている。そして、そ
の知識に基づくと、宇宙が何故、このように存在するのか、実は、よ
く分からない。

人は、自殺を選ぶことはできるだろうと思う。宇宙の根源の根拠は分
からなくとも、自殺することは可能である。

また他方で、果てしのない知識の集積や問いかけよりも、今日いまを、
いかに生きるか、今日の生活の糧、精神にとっての糧を得ることの方
が、より身近で、直接的に重要なことだという考えもある。プラトー
ンが伝えるソークラテースは、死の前にあって、我々は「言葉嫌いに
なることは避けようではないか」と云った。「言葉嫌い」とは、言葉
が、ロゴスであるから、「論理的な思索嫌いはやめよう」と云う意味
でもある。カントは、理性には、実践的な理性と、論理的な、純粋理
性があると考えた。

いかに生きて死ぬのが善であるかは、倫理的な問題であり、人間の人
生にとって、これこそ、重大な問題であるとも云える。しかし、純粋
理性もまた、倫理的な思索能力、つまり実践理性と並んで重要である。

何が良いことで、何が悪いことか、判断することは重要な問題である
が、その問題を考えるには、純粋理性を鍛えて、合理的な論理によっ
てものごとを考え判断せねばならない。

「なむあみだぶつ」と唱えれば極楽往生ができるというのは、平易な
答えかも知れないが、何故、なむあみだぶつ、と唱えれば極楽に行け
るのか。これを吟味するのは、理性であり、この場合、純粋理性と、
実践理性の両輪が必要になる。

先に、「光の閃き」は照明体験とも呼ばれ、直観における真実の覚知
であるとも述べたが、同時に、直観による真実覚知は、常に吟味され
るのであり、その吟味過程は果てしがないとも述べました。

悟りを開いたので、もはや死は何も恐ろしいこともなく、世界の根源
の真理さえ、悟った。それ故、いまからみずから死に赴く。これはこ
れで、実存の決断でしょう。しかし、その悟りとか、悟った真理とか
は、本当に、真の真理であり悟りなのか。

紀元2,3世紀の地中海世界のグノーシスの教師や、悟りを得た人た
ちで、自殺した人というのは、聞いたことがない。古代ローマ人は戦
士でもあったので、戦いに敗れれば、潔く自殺したというのも事実で
あるが、プラトーンの教えを知ったので、自殺したというような賢者
はいない。古代ギリシアの詩に、プラトーンの霊魂説の本を読んで、
さらば、此の世よ、わたしはイデアーの世界に行くと云って自殺した
若者を詠った詩があるが、気の早い若者はともかく、充分に考え、生
きて、人生の意味を尋ねた人で、かくも安易に死を選んだ人はいない。

古代のグノーシスは、当時の「秩序宇宙一元論」宇宙論に対するアン
ティテーゼとして提唱されたものであるが、グノーシスの英知を悟っ
た者は、自殺するのがよいなどという教えはどこにもないと思う。

現代は、宇宙論も存在論も、古代世界以上に、何が真実か分からなく
なっている。既存の秩序宇宙論に対する、実存の本質回復としてのグ
ノーシスは、それ故、古代世界以上に、何がグノーシスか分からなく
なっているとも言える。仏教もキリスト教も、その教えは、むしろ懐
疑で見られている。昔ほどに熱心に仏教やキリスト教に帰依する人は
少なくなっているとも言える。

それ故に、現代のグノーシス・智恵の探求というものは、大きな実存
のテーマとなっているが、その答えるところ、探求の道は、安易なも
のではないと思う。

とりあえず、わたしには、このようにしか答えられない。

悟りの体験や実感は、覚醒剤やLSDの幻覚体験のなかでも得られる
のであり、覚醒剤の幻覚のなかで、わたしは悟りを開いたと叫びなが
ら、自分でそれと知ることもなく、高い建物から飛び降りて死ぬのは、
悟りの結果なのか。そんなことをするのは、事故の類いに過ぎず、悟
りや救済や智恵などと、何の関係もないことであるだろうとわたしは
考えるのです。

_ SPH
 

問いかける過程としてのグノーシス

 投稿者:Miranda  投稿日:2019年12月19日(木)16時55分28秒
返信・引用
 
> こんにちは。
> グノーシスに魅せられた者です。
> 自分はうつなどの精神疾患があり
> 本を読むということが苦手であり苦痛です。
> グノーシスに関する本も何冊かあり何回も読み回したいのですが
> 病気が許してくれません。
>
> どうしたらいいでしょうか?
> アドバイスいただけると幸いです。

こんにちは。

「うつ」と云うのは、医師がそう診断されたのですか。その場合、
「単相鬱」ということでしょうか。(「両相」は、躁状態と鬱状態
が交互にある場合で、「鬱」しかない場合は「単相」と云います)。

または、医師の診断とかではなく、ご自分で、気分が落ち込むとか、
憂鬱とか、そう常に感じると云うことでしょうか。

「グノーシスに関する本」とは、どういう書籍を念頭されているの
でしょうか。

----------

グノーシスは、本を読むことで知るものではなく、本を読むことも、
グノーシスへの関わりの契機となるが、グノーシスは簡単に言えば、
「わたしは何か」「わたしは誰か」という「自己のありよう」につ
いての疑問が根本にあります。

「わたしは日本人である」「アメリカ人である」というのは、「わ
たしは何か」という答えになります。「わたしは男である/女であ
る」というのも、「何であるか」の答えになります。

どこで生まれ、どのように育ち、家族や知人、友人などには、どう
いう人がいるか、それらの人とどういう関わりを持つか。何を仕事
にしているのか、学生なのか、何もしないで無為に過ごしているの
か、色々なありようがある訳です。

「グノーシスの問い」は、「本来的なわたしは何なのか」という問
いです。つまり、いま生きているわたしが、自然なわたしで、わた
しであると思う人には、別にグノーシスの問いはない。何かがずれ
ている、本来のわたしは何か別のものであるように思う・感じると
いうのが、グノーシスの精神・自覚です。といって、もう一人のわ
たしがいるのではなく、「いまあるわたし」は、「本来のわたしの
一部である」あるいは「仮の姿である」、このように感じることが
グノーシスの気づきになります。

「グノーシスに関する本」には、本来のわたしへの問いについての
様々な考え方や、古代の人たちが、どういう風に問題を考え、それ
を、物語や神話の形で表現した例が述べられていて、それらの物語
や神話は、どういう考えが元になっているのか、本来の自分を、ど
のように考えていたのか、説明や解釈が書かれています。

しかし重要なのは、昔の人が何を考えて、どういう答えを見つけた
か、または探求したかではなく、いまのわたしにとって、本来のわ
たしとは何なのか、という問いになります。昔の人の考えたことは、
その参考資料にもなるのですが、昔の人の問いにおいても、答えは
分からない、というか、尋ねて、考えて行くことが重要だというこ
とが中心にあると言える。

例えば、「死」の問題があります。人は死ぬとどうなるのか。いま
から二百年前の日本は江戸時代ですが、その頃にも、何百万人もの
人たちが生きていたが、その人たちの名前も、人生も、ほとんど、
いまは分からなくなっている。いわば、「無」になってしまった。
そうすると、このわたしも死んで、二百年後には、無になっている
のか。いまは、もっと色色な記録が残るので、二百年後で、名前や
存在の記録は残っているかも知れない。しかし、四百年後はどうか。
千年後はどうか、一万年後はどうか。そもそも人類は、一万年後に
も、存在しているのか。

あるいは、「わたしの意識」は、死後にもあるのかないのか。死の
後には、わたしの意識や、わたしである自覚したり、認識する主体
は存在しないのではないのか。死後は「無」となるのか。

死の後、別の人として生まれてきて、またこの世に生きるのか。死
後、神の國とか天の国に入り、永遠に、そこで生き続けるのか。永
遠に生きるとはどういうことなのか。

死後にわたしは無となる。わたしとは何か? 「死後、無となる存
在」である。これは、「わたしとは何か」に対する答えになってい
る。死後に無となる存在がわたしだと、云うことに納得がいかない
場合、「わたしとは何か」という答えについて、納得がいかない。
別の本来のわたしが存在するのではないか。

グノーシスの問いとは、こういう問いです。しかし、このような問
いに、論理的、理性的に確かな答えはない。こういう問いは、「超
越的な問い」と云います。

超越的な問いは、論理的な答えがないのです。しかし直観的な答え
は存在することがある。直観的な答えが論理的に正しいのか否か、
論理的には分からない。しかし直観的に、「そうなのだ」と気づく
とき、それは「そうなのだ」ということです。

超越的な問いは色色なものがあり、それは幾ら理性で考えても、合
理的な答えは出てこない。しかし、あるとき、真理あるいは真実が
直観的に気づかれるときがあるかも知れない。

グノーシスというのは、このような問いを心に抱くことである。
「そうなのだ」という直観的な気づきをまた「グノーシス」とも云
う。何を気づいたのか、何を直観したのか、論理的には説明できな
いので、例え話や物語、神話で、その輪郭を表現する。これを、グ
ノーシス神話とも云う。グノーシス神話は、自分が何かを気づくた
めの階梯(はしご)のようなもので、みずから尋ねるのない限り、
グノーシス神話は、ただの物語に過ぎない。

わたし自身、答えなど知らない。死は無である。しかし、無である
死の向こうに、何かがあるだろうと思っている。再び地上に生まれ
変わって来るとか、天の国に行って、永遠に生きるとか、そんなこ
とではないと思う。

死は、無への落下でただただ恐怖であると恐怖しながら死ぬ人もい
る。人生を充分に生きたので、死後は無であるか無でないか、そん
なことには関心がないと思って死ぬ人もいる。死後、自分は天の国
・神の國に間違いなく迎えられるので、死は少しも怖くないとして
死ぬ人もいる。この世に生きていることはわずらわしいので、死ん
で終わりがあるのはありがたいと思って死ぬ人もいる。生きている
と、人生の失敗や悔恨の苦しみが絶え間なく心を襲う。死は、この
ような人生の敗北感や後悔、悔恨、生の惨めさからの永遠の救いで
ある、むしろ喜ばしいと思って死ぬ人もいる。死ねば、再び此の世
に生まれ帰ってきて、新しい別の人生を生きるのだと思って死ぬ人
もいる。自分はこの世で悪行を積み重ねたので、死後は恐ろしい地
獄に落ちるに違いない。地獄に落ちたくないと思いつつ死ぬ人もい
る。万物流転にして、この世に生を受けたものはすべて滅びる。こ
の理(ことわり)を知っているので、死は何も恐ろしいことでも何
でもないと思って死ぬ人もいる。

そして結局、死んでみるとどうなるのか。分からないのか、何か分
かるのか。自我や意識は、神経回路があるパターンを持っている状
態なので、死ねば、このような神経系のパターンは崩れる。従って、
死後には無しかない。バートランド・ラッセルはこのように考えた。
他方で、自我や意識は神経系のパターン活動だけではないという考
えもある。そうすると何なのか。何かよく分からない。では死後は
無ではないのか。何かよく分からないというのは、文字通り、分か
らないので、分からないことに、何か確定的に答えることはできな
い。

死後の生について云えば、グノーシスは、死後は無であるという。
しかし、無の向こうに何かあるとも云う。何があるか理性的には答
えられない。何があるかは、直観で知るのである。暗闇に光が閃い
たとき、何かが見える。これをグノーシスというのです。

とりあえず、考えれば考えるほど分からなくなってくる。
自分で答えを直観したい人。先の譬喩では、暗闇の中の光の閃きで
何かを見たいと思う人はグノーシスを尋ねるのがよい。しかし、す
でに答えは出ていると云うなら、自分で尋ねる必要はない。どこか
の宗教に帰依して、念仏や祈りを唱えていればよいという人は、そ
れでよいのです。

暗闇の中に光が閃くというのを、「照明体験」とも云うのですが、
また「悟りを開く」とも云います。しかし、こう云うと、本物の照
明体験、偽の照明体験、本物の悟り、偽の悟り、正統な悟り、逸脱
した悟りなど、色色な評価があります。

麻薬や幻覚誘導薬、精神開示物質を摂取すると、悟りを開いた体験
ができるという説もある。また悟りを開くため、断食や苦行や瞑想
を行うと、脳内麻薬が分泌されて、それが恍惚体験や悟りの体験で
あるという説もある。LSDで悟りを体験するのと、修行で悟りを
体験するのと、同じではないかという説もある。

しかし、それは違いがある。修行で経験する悟りは、修行したとい
う、人生の過程の結果であるとも云える。LSDの悟りは、LSD
を摂取した結果だということになり。ここで修行の有無が違ってい
る。

グノーシスは既存の世界観や死生観とは別のところで成立する何か
だとも云える。いったんグノーシスの照明を言葉にすると、それに
類似したものはいっぱいあるということになるが、違いは、グノー
シスの問いの過程があるかないか。グノーシスを探求する必然性が
あったのか、なかったのか。グノーシスはどこまでも理性的である
ことを維持する。神秘主義ではない。しかし、理性で問いを限りな
く尋ねて行く過程で辿り着くものがあれば、それは理性を超えてい
る何かであって、それは「神秘体験」である。理性を軽視あるいは
無視して得られる神秘体験とは、理性への一貫した探求という過程
において、違いが出てくる。

グノーシスは書籍には書かれていない。書籍には、そのきっかけが
書かれている。グノーシスは、自分が内面において、理性の根拠に
立って、問い続けて行くことである。超越的な問いを、理性で尋ね
て行くことで、理性の答えは出てこない。しかし、自己の出自、自
己の本来のありよう、本来の故郷に疑問を抱いて、理性で尋ねて行
く限り、それはグノーシスの問いになる。

自分で尋ねて行くのがグノーシスである。とはいっても、様々な意
見や考え方、世界観や価値観、宗教、死生観について、学び、他者
の考えるところを知ることは、むしろグノーシスの道の過程である。

何でも尋ね、学び、取り入れ、なお尋ねて行くことがグノーシスに
なる。グノーシスには、実は決まった教義がない。尋ねる姿勢が、
グノーシスである。グノーシスは「不可知論ではない」。理性では
分からないことを尋ねて行くが、「光」を求めて尋ねて行くのであ
り、「光の存在」は、真実である。「真実」は「事実」とは異なり、
理性的に確認できないが、直観的に知る何かである。そんなものは
ないのかも知れないが、あるかないか、分からないので尋ねて行く
ので、「ない」というのが不可知論なら、グノーシスは不可知論で
はない。

光があるかないか、分からない。「ない」というのは虚無主義であ
り、あるかないか分からないというのは、不可知論である。グノー
シスは、「ある」という期待で尋ねて行く。あるいは、「ないとい
うのは、おかしい」という直覚、感じがあるので、「ある」と期待
する
。これが妄想や妄信と異なるのは、何があるのか、理性的に、
どこまでも尋ねて行くからである。こうして、何かの照明体験を得
て、それをグノーシスだと知っても、その照明体験を理性で考察し
て行く。真のグノーシスではないかも知れない。こういう過程だと、
結局、いつまでたっても、疑問ばかりで、確定的な答えなどないの
で、無意味な空しい思索活動だとも批判できる。

しかし、それは「答え」を理性的具体的に得ることを目標にした場
合に、空しいと思うので、グノーシスとは、実は、このような理性
的な問いの「過程」のことである。問いの果てに、「光」に辿り着
かなくとも、問い続けたという人生の過程は真実である。そして、
この人生の問い続ける過程が、実は「光」である。そうして振り返
ると、グノーシスの問いの過程に入って行ったことは実は、最初か
ら「光」を知っていたからだと云うことになる。

グノーシスというのは、自己とは本来何なのかを問い続ける過程の
ことになる。その結果、奇蹟が起こるのかも知れないし、奇蹟など
どこにも起こらないのかも知れない。しかし、それはグノーシスの
真実にとっては重要な問題ではない。

『新約聖書・福音書』において、イエズスは、「人々は信仰がない
が故に、わたしに証(しるし)を求める」と述べている。この「し
るし」というのは、イエズスが神の子であることを証明する奇蹟の
ことだと云ってもよい。しかし、奇蹟があれば、イエズスは神の子
だと証明されるのか。実は証明にならない。

神であるとか、神の子だとかは、実は超越的な規定である。人間が
有限な存在であれば、いかにして、超越を了解・理解できるのか。
理解できない。しかし、人間自身が、超越性を持つなら、超越的な
崇高性をそのうちに持つなら、理性で超越性を理解できなくとも、
超越性は、ここ、そして、そこにある。

(注:イエズスは「天の国[バシレイアー・テウー]は、そこにあ
る、ここにあるというものではなく、あなたがたのあいだにある」
と述べている。イエズスは、「そこ・ここ」で、具体的な場所を指
示しているので、場所的に天の國がある訳ではなく、人間の関係性、
人の魂の交わりのなかに、天の國はある、と云う意味で、このよう
に述べている。わたしは、超越性は、「ここ、そこにある」と書い
たが、この「そこ、ここ」は、場所ではなく、我々の意識の気づき
の「そこ・ここ」にあるという意味である。「ヴァティカンには、
神の靈の刻印があり、天使の姿がある」というのは場所的な把握で
あるが、「我々の魂の奥底には神の刻印がある」とか、「天使は我
々のこころに宿っている」というのは、場所ではなく、たましいの
ありようの問題である)。

人間に神性が宿っているとは、このような意味である。人間の神性
は、みづから見いだすのであり、気づくのである。誰かが教えてく
れるのではない。教義に書いてあるのでもない。それぞれの人の生
の課題であり、気づき、光を知るのは、その人自身である。グノー
シスを得たと思っても、それが真実のグノーシスか、人は問わねば
ならない。問うことがグノーシスの過程であるから。そうすると、
すべての人がまた尊いとも言えるし、自分が最終の真理を知った賢
者であるというような傲慢にも陥らない。

それぞれの人がグノーシスの道を進むのなら、すべての人に神性が
宿っているのであり、自己が悟りに気づいても、それを尋ねるのが
グノーシスなら、究極の真実はわたしにはない。そうであるが故、
グノーシスは謙虚となる。傲慢にはならない。傲慢は結局、無知を
意味する。自己が無知であると実感する者は無知ではないし、傲慢
でもない。

_ SPH
 

Re: ソーテール

 投稿者:AtoZ  投稿日:2019年 6月16日(日)22時33分18秒
返信・引用
  > No.117[元記事へ]

Miranda様
早速のご教示頂きまして、本当にありがとうございます。

> ソーテールは、人の魂のなかの霊の火花・内部の救済者(ソピアーの断片)を覚醒させるために訪れるとも言える。

とても分かりやすく納得しております。
私はこれまで、ソフィアー神話の伝えたい事は、"決まった運命の相手とシュジュギアとなってはじめて完璧な存在となる"という雑な解釈(思い込み)しか出来ておりませんでした。なので、対とならないアイオーンの出現にとても悩まされましたし、結局、アカモートはソーテールと一対となる事が出来たのかがいまいち分からなかったのです。

> 「天使」とは何を指すのかよく分からないのですが、アルコーンも天使と呼ばれ、
> アイオーンも天使と呼んでいるようで、何かよく分からない。

言葉が不足しており、申し訳ございません。ここでの天使という表現は、ソーテールを守る天使たちの事です。
アカモートが天使たちを見て子(霊的存在)を流出したというのを読んだ事がありました。それが何故ソーテールとの子でないのかがひっかかっていたのです。
しかし、こうだからこうなんだ。という考え方がそもそも間違っていたんだと気づかされました。

私はこれまで”結婚”という人間が当たり前とする行いに、何の興味もありませんでした。しかし、どの神話を読んでいても、タロットカードにも、必ず結婚は現れる。それは私にとっては単に動物的であり、親に結婚の話をされると吐き気しかありませんでした。
しかし、ソフィアー神話と出会った私は、いつの間にか考えが変わっておりました。
将来、私の心を救ってくれる人と出会えて一対になれたらなと思うようになり、その変化がソフィアー神話の虜となったきっかけでした。
今回、Miranda様のお返事を拝読していたら、ソフィアー神話はそうありきたりな話なのではなく、内なる霊の目覚めもまた救済なんだと知り、今の自分を見つめると私はある意味、ソーテールと出会えているのかもしれません。
少し前ですが、繰り返し見る悪夢の中で一つのサインを拾い、現実でそれを検索した所、グノーシスにたどり着き、生き方考え方が変わってまいりました。
きっと今までの私は、<孤独や死を恐れない=ちょっとしたセルフネグレクト>のような状態であったと思えます。
今日は様々な学びから心がふわっと軽くなりました。深い知識をお持ちのMiranda様とコミュニケーションを取れた事に心より感謝致します。
また何かありましたらご教示頂けますと幸いです。

----AtoZ----
 

Re: ソーテール

 投稿者:Miranda  投稿日:2019年 6月16日(日)02時54分22秒
返信・引用
  > No.116[元記事へ]


はじめまして、AtoZ さん。
存在の根拠を尋ねる思索や哲学は、限りなく難しいとも思います。人は一体、この
存在の世界に対しどれだけの「真実開示」を得て、認識を得ることができるのか、
ほとんど何もなく、コーヘレト(伝道者)が述べたように、風をつかむように空し
く、その一生を終えて、「無」へと帰って行くのだとも思います。ただ、「超越の
光輝(ポース)」は、形而上学的超越視点で、むしろあると考えた方が論理的にも
思えるので、宇宙と人の生は、まったく空しいものではないと、希望を抱きたいで
す。

グノーシスの叡智について、わたしは何かを他の人に教示できるような存在ではな
いとも痛感します。『救済神話』とは、岩波書店の「ナグ・ハマディ文書」のなか
の最初の巻だったかですね。わたし自身、ヘレニク時代の地中海世界でのグノーシ
ス思想について、なお学ばねばならないという思いしかありません。一緒にまた、
学んで行くことがよいのかも知れません。

どのような動機で、グノーシスやソピアー神話に興味を持たれたのでしょうか。

それはとまれ、グノ-シスは、神話を体系的に構築して「固定」しないというのが
特徴です。キリスト教などにとっては、「キリスト神話・イエズス神話」は、それ
が宗教の正統性の証明であり、教義の正統性の源泉であるので、「クレドー」に見
るような神話を「固定」的に位置づけます。この神話が異なると、あるいは神話に
対する解釈が異なると、カトリックと東方教会の分裂がそうであり、またカトリッ
クとプロテスタント諸派の分裂がそうであるように、異端論争になります。

従って、特定の宗派内では、キリスト神話の神話要素の構造システムは、不変・普
遍なものとして、構造の保存と継承が行われる。しかし、グノーシスの思想では、
構造は、神話解釈であり、神話解釈を行うこと、あるいは神話を創作・創造するこ
とが、グノーシス(覚知)への道となっているので、神話は、個々の教師ごとで、
あるいはグノーシスの信徒ごとで、自由な解釈の余地がある。

「ソピアー神話」についても、様々な断片的なグノーシス文献や、反駁論者の著作
での断片引用で、色々なことが言われているが、これらの断片情報を集めて、「本
来のソピアー神話」を復元構築しようとしても、実は構築できない。何故なら、グ
ノーシスの神話は、不変・普遍な構造システムとしては、造られていない。普遍な
のは、神話を構想して生み出す人の精神の自覚であり、これが「現存在姿勢」とい
うことになる。

グノーシスの「現存在姿勢」というのは、おそらく簡単に言えば、「何故、このわ
たしが、この存在宇宙に存在しているのか、何故、宇宙はこのような宇宙として存
在しているのか」このような根源的な疑問・懐疑の現存在のありようだと言える。

この状況を把握し、解釈し、なにゆえか、という理解を得るために、神話が構築さ
れるので、神話の構造は、個々のグノーシス者で、別々のものであってよい。従っ
て、「ソピアー神話」も、それに言及する人によって、色々な話になってきて、過
去の文献断片を元に、元々の姿を復元するということはできない。元々の姿がない
と言えるからです。

「ソピアー」とは何かということで、そもそも様々な解釈がありえる。プレーロー
マのなかの諸アイオーンのなかの、もっとも低い席次のアイオーンで、彼女の「過
失」によって、プレーローマ界から分離して、魂と物質の世界、つまり「この世」
が誕生した。そこでは、造物主(デーミウルゴス)が、宇宙を創造したのは我であ
ると主張しているが、アイオーンやプレーローマと、この世はどういう関係にある
のか、これを構造的に述べたものが神話になるのですが、色々な見え方や解釈があ
り、何がどうとは言えない。

ソピアーは、永遠精神・アイオーン・プレーローマの「女性的位相」であるという
解釈がありえ、個体的な(あくまで「個体・的」。個体ではない)像として、アイ
オーの一体であるという解釈が可能で、また、神的流出の劣化流出の果てに、霊が
希薄となり、物質世界が生み出される過程で、物質のなかに、その反映像が存在す
るとも言える。更に、流出あるいは変容が進むと、人間のひとりにソピアーが宿っ
ているという解釈もありえ、あるいは、人間の内部の「神的な火花・霊の破片」は、
すなわち、ソピアーの一部であるとも解釈できる。

以上に簡単に分けて述べたソピアーの像を、リストにしてみると:
1]プレーローマの女性的位相
2]アイオーンの一柱
3]プレーローマから失墜した霊的存在像
4]物質における反映像(アカモート)
5]霊的な人間の魂に宿る霊の破片としてのソピアー
6]人間の肉体のなかに入った、受肉のゾピアー

簡単に考えて、これらがすべて、ソピアーであると言える(ソピアーの分身と、ソ
ピアー本体は、霊的存在であるが故、区別が実はない。個体的にとらえると、ソピ
アーとアカモートは別の存在になるが、視点を変えると、同じものが、別に見えて
いるだけである)。

2や3のソピアー像だと、テレートスがシュジュゴスであるアイオーンであるが、
3の「失墜」において、このシュジュギアが壊れているので、ソピアーは伴侶がい
ないことになる。アイオーンとしてそれは不完全であるが、不完全であるからこそ、
この宇宙が成立した原因神話の中心になるので、宇宙がどう考えても不完全である
他方、霊的世界は完全であり普遍であるため、どうして、この世の「不完全性」が
生まれたのか、それを説明する神話が必要なので、ソピアーの失墜という神話が造
られているのです。「この世の起源」を神話は語る。

>>アカモートはソーテールとはシュジュギアとはなっていないという事なの
でしょうか?

「ソーテール」として、何を考えておられるのか、どういう文脈で、ソーテールを
考えているのかで、違った話になると思う。ソーテールというのは、「救済者」と
いう意味で、それはイエズスのことだとも言えるが、ソピアーがまた救済者である
ので、どういう関係構造の神話を語っているかで、内容が違ってくる。

救済は、完成した充満であるプレーローマにあり、そうとすると、プレーローマよ
り救済者(ソーテール)が地上・この世界にやってくる。それが、イエズスだとい
うのが、キリスト教的グノーシスの神話ですが、他方、この物質世界の人間の魂に
は、ソピアーの破片、アイオーンの破片、霊の火花、プレーローマの永遠の破片が
宿っている。そうすると、救済は、プレーローマという果てしない無限・永遠の彼
方の知られざる世界から訪れるというより、すでに、魂のなかのアイオーンの破片
において、人はそれぞれの魂にあらかじめに、救済者を持っているとも言える。

ソーテールは、人の魂のなかの霊の火花・内部の救済者(ソピアーの断片)を覚醒
させるために訪れるとも言える。つまり、イエズスが「聴く耳を持つ人は、聴くが
よい」と述べたのは、自己の内部の霊に気づく人は、気づくであろうという同義反
復だとも言える。「分かる人には、分かるであろう」というのは、救済者はイエズ
スでもあるが、自己のうちにある霊・アイオーンの破片だとも言える。人のうちな
る霊が、その人の救済者となる。

しかし、このような霊の前提存在の神話的真実開示だと、世俗的な人のイメージで、
救済の故郷であるプレーローマへと、人の魂が帰還することが救済であれば、どう
いう具体的な過程を経て、プレーローマへの回帰・帰還が可能なのか、故郷への帰
還の旅の具体的なイメージがほしいということになる。そこで、人の死後、その魂
は、地上世界の上位にあって、七つの世界圏を構成しているアルコーンのヘプドマ
ス(七界圏)を、一つ一つ通過して、ヘプドマス・物質宇宙から脱出し、ソピアー
の映現像が存在する中間世界に入り、そこで浄化される、という神話を構成する。

こう言った神話は、実際は、どういう形にでも構成できる。ウァレンティノス派は
彼らの神話構造を語っているが、見かけの物質的な枠組みの「構造」は、実は仮幻
(シャイン)である。

「天使」とは何を指すのかよく分からないのですが、アルコーンも天使と呼ばれ、
アイオーンも天使と呼んでいるようで、何かよく分からない。アルコーンは、個体
実体的な低級霊像でよいのかも知れないが、アイオーンは、個体実体的ではない。
ただ、物質世界のなかにある人間に現前するには、物質的な装いをとらないと、人
間には認識できない。

マニは、天使あるいはパラクレートスがわたしに訪れ、真知を伝えたと述べている
が、空から白い翼を持った、人の姿をした、不思議で崇高な恐ろしい存在が地上に
おりてきて、「マニよ、汝に真実を授ける」などと言ったのでは無論ないでしょう。

古代ギリシアの詩人で、『神統記』『仕事と日々』などを著したヘーシオドスは、
その詩の冒頭において(『仕事と日々の冒頭の行』)、ヘリコーン山の麓で、羊の
番をしていたわたしの前に、ヘリコーン山のムーサ(詩の女神)が訪れ、神々につ
いての真実を語ってくれたと書いているが、この場合も、翼を背中に持ったムーサ
女神が出現して、ヘーシオドスに何かを語ったのではないでしょう。

マニの場合も、ヘーシオドスの場合も、真実は、「開示」として直観的了解の形で
訪れるので、その場合、あるいは当人が幻覚を見ているかも知れないが、幻覚と、
真実開示は別のことです。

ここで強調しているのは、アイオーンにしても、アルコーンにしても、魂の救済に
しても、ソピアーの失墜とその救済にしても、すべて、人間的な理解の地平では、
地上的な構造の枠組みで、物語・神話の形で語らないと、普通は分からない、具体
的なイメージが得られないということです。しかし、知恵とか真実は、地上的な構
造の枠組みで開示され了解されるのではない。実はそのような構造が錯覚であった
というのが、真実開示になる。

イエズスは比喩的に、天国では、あなたは死別した妻とも再会し、再び妻を迎える
であろうと述べたが、それに対し、もし、人が妻と死別して後、別の妻をめとった
場合、天国で、複数の女を妻にするのですか?と尋ねられた(複数の妻を持つこと
は、ユダヤ教では罪になる。ただし、男は、妾を何人持ってもよい。他方、女は夫
以外の男と関係を持つと、姦淫の罪を犯したとされて、石打ちの刑で殺された)。
これに対しイエズスは、天国とはそのような場所ではないと答えたはずです。天国
での「生」とはどういうことか、言葉を超えているので、比喩を語っているのを、
比喩ではなく、比喩を直接的な意味に解釈するとおかしいことになる。

神話や物語は、比喩的、象徴的に構成されているので、重要なのは、神話が含意す
る真実や真知であって、物語の枠組みは、二次的なものになります。極端に言えば
どんな構造の神話でもよい。人間の状況(現存在の状況)と救済の真実を象徴すれ
ば、どのような物語も神話も、それでグノーシス神話としては妥当である(最初に
キリスト教の霊をあげて述べたが、キリスト教では、キリスト神話が、絶対的な真
理性を持っている。しかしグノーシスでは、そうではないのです。ソピアー神話は
何とでも語ることができる。重要なのは、人間の状況である)。

長々と書きましたが、意味不明かも知れません。

_ mrd


> 初めまして。ソフィアー神話に魅力を感じている者です。
> 救済神話しかまだ買えず、この先何とか残りも集めたいと思っております。
> そしてどうしてもご教示願いたい事がございます。
> アカモートはソーテールとはシュジュギアとはなっていないという事なのでしょうか?
> アカモートが天使たちとどうなったのか等その辺りの救済部分がよく分かりません。
> ネット上の情報を読んでいても読解力がなく、とても苦戦しております。愚問でしたら申し訳ございません。


 

ソーテール

 投稿者:AtoZ  投稿日:2019年 6月15日(土)09時11分37秒
返信・引用
  初めまして。ソフィアー神話に魅力を感じている者です。
救済神話しかまだ買えず、この先何とか残りも集めたいと思っております。
そしてどうしてもご教示願いたい事がございます。
アカモートはソーテールとはシュジュギアとはなっていないという事なのでしょうか?
アカモートが天使たちとどうなったのか等その辺りの救済部分がよく分かりません。
ネット上の情報を読んでいても読解力がなく、とても苦戦しております。愚問でしたら申し訳ございません。
 

フライング・シーウィード

 投稿者:Miranda Welrech  投稿日:2018年 2月22日(木)18時42分17秒
返信・引用
 
近年、著名なある小説を読んでいると、最初の方で、「フライング
・シーウィード」というルビが出て来た。これ自体は、それほど異
様な言葉ではない。このルビは、「空飛ぶ海苔」についているルビ
で、「空飛ぶ海苔」とは、はて面妖なと思った。

フライング・シーウィードは、「空飛ぶ海草」ではないのかと思っ
た。「海苔」も海草には違いないが、イメージとしてよく分からな
いし、「空飛ぶ海苔」なら、別の言葉があってもよいように思う。
この作品の一人称登場人物は、アメリカ人で、文化背景も、アメリ
カそのものようである。

もう少し読むと、「フライング・シーウィード」というのは、どう
いうものかの描写というか説明がある。スティルス性を高度にたか
めるため、真っ黒な、平たい、薄い四角形をしている。なるほど。
そんなものが空を飛んでいると、見た目、たしかに「空飛ぶ海苔」
になる。この「海苔」は日本で朝ご飯などに出てくる、味付け海苔
のことだと思えばよい。海苔といっても、かなずしも、平たい、ぺ
らぺらの長方形をした、味付け海苔とは限らない。佃煮の海苔もあ
るわけである。

この主人公はアメリカ人である。いくらか日本文化について知って
いるようで、朝食に出てくる「味付け海苔」を知っていても不思議
はないかも知れない。しかし、それだと、個人的なネーミングにな
る。

しかし、どうも英語では、海苔も海草一般も、seaweed と呼ぶよう
である。日本や日本語が、海洋文明・文化であるため、海産物など
の名称が細分しているのかも知れない。さかなの名が多いのも日本
の文化の特徴だから。しかし、個人的には、フライングシーウィー
ドというと、長大なこんぶかわかめのようなものが、気流のなかで
ゆらゆら揺れながら飛んで行くイメージがある。(そちらの方が、
シュールな気がしたが、空飛ぶ味付け海苔も、けっこう、シュール
なイメージである)。

_

 

東アジアの情勢

 投稿者:Miranda Welrech  投稿日:2018年 1月11日(木)23時47分59秒
返信・引用
 
現在の日本では、空想平和主義を信仰している反日左派の人々と、
歴史修正主義空想右翼崇拝の人々が、一種の「宗教」を信奉して、
現実の世界の状況を見ようとしない状況がある。現在の東アジアに
おける状況をどのように理解して未来を考えるのか、空想反日左派
も、宗教妄想右派も、冷静なスタンスになって、事実認識を得るこ
とではなく、願望を投影した世界把握を行っているとしか思えない。

何が起こっているのか彼らには「見えない」ようにも思える。左も
右も、硬直したドグマに束縛されていると云ってもよい。

東アジアの目下の情勢では、中国の動向が重要であるが、中国につ
いては、党中央政府自身が、自国の現状についての客観的な状況資
料を把握していないように見え、外部の人間には、それ以上に、実
情が分かりにくくなっている。

朝鮮半島の状況については、昨年末の十一月から十二月には、米国
と北朝鮮のあいだで戦争が勃発する可能性が感じられたが、年を越
えてみて、かなりはっきりしてきたのは、米朝戦争は起こらないだ
ろうという可能性である。アメリカは北朝鮮を電撃攻撃して、体制
転覆を実行する意志はないように思える。

仮に、米国が北朝鮮と戦端を開くとすれば、それは昨年の末、十二
月頃が戦略的に好機であった。その時点でアメリカには、莫大な被
害の出る電撃戦争を実行する意志はなかったことになる。北朝鮮は
米国に向けて核ミサイルの発射にせよ、他の形態の攻撃であろうに
せよ、実行する意図はない。ただし、米軍が北朝鮮を実際に攻撃し、
指導階層の生命や体制そのものが破滅する事態になれば、核ミサイ
ルにせよ、生物兵器にせよ、アメリカに対し報復攻撃を行う可能性
はあった。しかし、現時点の状況まで来ると、アメリカが北朝鮮を
攻撃する可能性はほぼなくなったとも思え、韓国での冬季オリンピッ
クに北が参加を表明したことは、アメリカによる戦争はないと確信
してのことだと思える。

南朝鮮すなわち韓国政府は、慰安婦問題を蒸し返し、更に、日韓の
基本条約を廃棄することを意図しているが、韓国国民は、そのよう
な方針が、日韓関係の悪化を招来すると云うことよりも、むしろ、
この政治方針は、結果的に韓国国家の消滅をもたらすということを
自覚した方が妥当である。日本国民が、左右にあって、空想の日常
を信じているのと同様に、韓国国民も、国家の状況や国際状況が分
かっていないとしかいいようがない。

アメリカは北朝鮮を核保有国として認める予定である。公言はしな
いが、核保有国となる道筋を進んでいる北朝鮮に対し、実力行使し
ないのであれば、それは結果的には、北朝鮮の核保有を承認すると
いうことになる(中共は、北朝鮮の核保有を早くから認めている。
ロシアもまた承認しているのであり、もし、中共やロシアが北朝鮮
の核保有を認めない方針であった場合は、核開発を阻止する手段は
幾らでもあった。国連安全保障理事会が、幾度も北朝鮮の核廃棄を
決議しても、核開発がより一層進行すると云うことは、中国とロシ
アがバックアップしているとしか考えられない)。南朝鮮のムン政
権は、北朝鮮との統一国家としての朝鮮連邦を夢見ているか、また
は中国が統一連邦の成立を約束している可能性があるが、ムン政権
の望む通りの結果にはならないと思われる。

中国は朝鮮半島を自国の領土に加えることはしない。属国として支
配下に収めるであろう。在韓米軍は撤退し在日米軍も将来的な撤退
を前提に規模縮小し、米軍はグアムに後退すると思われる。大韓民
国は、形だけ独立国として残っても、政府は中共の下僕となり、国
民は、三級人種として、中国人の前に土下座する運命となるであろ
う。現在の韓国の親北勢力も、保守親米勢力も、いずれも、中国の
威光の前土下座する奴隷階層の民族とされるであろう。

これは、2020年代半ばには起こりえるシナリオである。そのと
きに、日本と日本国民はどのような立場になりえるのか。中国は日
本に対しては、絶滅させることが基本方針になる。日本の空想平和
主義の左派グループは、中国の奴隷となって、土下座すれば、中国
は日本を属国として認めてくれると考えているかも知れないが、日
本の文化や日本人が危機状況で発揮する力には畏るべきものがあり、
このような日本は、文化を徹底的に滅ぼし、誇りを持つ日本人を大
量虐殺して屈服させるという方向しかない。

これは、今後十年のあいだに東アジアで起こりえる事態の想定シナ
リオである。
朝鮮半島は、どの方向に進もうと、地獄に落ちることはまず間違い
ないが、日本列島は、中国による絶滅攻撃を受ける前に、あるいは
受け始めてはじめて反撃が行われると、違った未来のシナリオが想
定されるようになる。

中国は、この未来十年か十五年ほどの期間のどこかで、内部矛盾の
拡大により、内戦そして内部分裂に陥って国家崩壊する可能性があ
ると思える。欧米の歴史学者や政治学者は、中国の国家統合や国力
を、過大評価する傾向がある。

この一年にあって、国家主席習が、実質的に政治指導者として、ほ
とんど何の実績も持っていないにも拘わらず、自己を独裁皇帝のよ
うに喧伝し、皇帝であるかのごとく振る舞い始めたことは、中国の
内乱か内戦、国家崩壊の勃発の可能性を示唆しているようにも思え
る。マオ・ツァートンや Deng Xiaopingは独裁者と云ってもよいだ
けの実力と実績を持っていた。だが彼らは、皇帝としては振る舞わ
なかった。隠然たる「影の皇帝」であったが、皇帝として表には出
なかった。

権力基盤がなお不安定であるにも関わらず、独裁者として皇帝の振
る舞いを始めたシー・チンピン(Xi Jinping)は、中国の国家分裂
・崩壊の前兆のようにも見える。あるいは国家崩壊しないかも知れ
ないが、シナリオ的には、では中国はどうなるのか、という困難な
問題が出てくる。

この未来十年あるいは二十年において、東アジアには烈風が起こり、
怒濤のごとき政治的軍事的緊張や混乱や、事実上の動乱が起こる。
アメリカは東アジアの情勢に介入しないと予想され、ロシアは、中
国と東アジアの混乱に乗じて、侵攻を意図するかも知れないが、ロ
シア自体も、賢明な強権支配者プーティンは、十年後にはその権力
の座にいない。ロシア自体が、この未来十年において、内部的な動
乱に見舞われる可能性が高い。

日本は、不確定ではあるが、動乱の過激な時代となることは恐らく
間違いのない、この未来十年、二十年を、どうやって乗り切るのか。
ライヴァルを根絶することを意図する中国によって、列島全体が、
核兵器で消滅させられるのか。朝鮮半島の動乱や、中国の内乱にお
いて起こる混乱に巻き込まれ、国家がなかば解体状態になるのか。

アメリカは明らかに東アジアから撤退し、南北アメリカ大陸の盟主
として栄光ある孤立のなかで、経済的な繁栄を維持しようと試みる。
中国は、軍事力を幾何級数的に増大させ、東アジアの支配帝国とし
て、太平洋東部領域と東南アジア全域に支配を及ぼそうと現に、侵
略を行っている。南シナ海や東シナ海で中国が現在行っていること
は、領土拡大や支配拡大を意図して計画的に進めているという以外
に、どういう解釈がありえるのか。

わが日本国は、どう対応すればよいのか。きわめて可能性が高いの
は、中国は、日本民族や日本文化を絶滅させようと意図しているこ
とである。

_

 

スワン

 投稿者:Miranda Welrech  投稿日:2018年 1月10日(水)03時01分50秒
返信・引用
 
「スワン」というのは、英語だと、swan で、白鳥のことである。ドイ
ツ語では、Schwan というような言葉だったと思う。「シュヴァーン」
であるが、発音における音韻変化の結果で、基本的には同じ言葉が元に
なっている。ラテン語では、キュグヌス(cygnus)だったと思う。フラ
ンス語の単語は、ラテン語から来ており、英語で、シグネットという単
語があるが、これはキュグヌスに指称辞の -ett が付いた形である。

(と思ったが、調べて見ると、ラテン語では、別の単語が出てくる。し
かし、Cygnus で白鳥座である。ギリシア語のキュクノス(kyknos)が
ラテン語化したのか、ラテン語にも、同じ語根の言葉があったと思える。
ラテン語では、olor という言葉が出て来て、あまり聞いたことがない
ので、意味を調べると、「におい」という意味だそうである。よく分か
らないので、wiktionary で調べて見ると、古代のラテン語では、olor
は白鳥で、後期ラテン語・通俗ラテン語では、「におい」の意味になる
ようで、odor の変形で、こういう意味が出て来たのだという)。

それは、横道の話で、本題の話はもっと簡単である。フランシス・バー
ネットという女流作家に、日本語訳の定番タイトルで『小公子』『小公
女』と訳される物語がある。それぞれの英語での原題は、Little Lord
Fauntleroy が「小公子」で、Little Princess が「小公女」である。
Lord Fauntleroy は「フォントルロイ卿」で、「小さなフォントルロイ
卿」というのが原題の意味である。「小公女」は、文字通り、「小さな
プリンセス」なので、「小公女」になる。フォントルロイ卿というのは、
セドリック・エロルが継承した貴族の爵位称号であるが、多分、これは
子爵位である。ドリンコート伯爵家の筆頭継承者がこの爵位を名乗ると
云うことは、ドリンコート家がフォントルロイ子爵位を持っているとい
うことである。

(イギリスの貴族の場合、男爵家は別だが、子爵、伯爵、侯爵、公爵な
どの爵位を持つ家は、普通、二つか三つか、それ以上の爵位を同時に持っ
ている。婚姻関係を通じて、爵位が集まって来る場合があるが、その前
に、王族公爵以外は、普通、下から段々と上に上がって行く。軍人や政
治家で功績があると、まずナイト爵位が授けられ、更に功績があると、
男爵が授けられ、更に功績があると、子爵が授けられ……と、順番に上
位の爵位になって行く。イギリスの爵位は、日本の明治維新後の華族の
爵位とは違い、ある「家・個人」に爵位が授けられるのではなく、例え
ば「グレイ伯爵」という伯爵位だと、こういう名前の「伯爵位」を創立
し、新しい爵位を、ある功績のあった人物に授ける。「爵位」というの
は、形のない一種の財産のようなもので、ある人物が授かった爵位は、
その財産と共に、継承者に受け継がれる。ある人物がいて、功績があっ
たので、プライム男爵という爵位を授けられると、その人は、プライム
男爵になるが、更に功績があったので、セクンダ子爵を授けられた場合、
この人は、セクンダ子爵兼プライム男爵というのが実は正しい。更に功
績があって、トリニト伯爵を授けられると、トリニト伯爵兼セクンダ子
爵兼プライム男爵になる。一番高い爵位で、その人は呼ばれるが、トリ
ニト伯爵家は、トリニト伯爵位の他に、セクンダ子爵位、プライム男爵
位を持っている。男爵から子爵に昇進し、子爵から伯爵に昇進しても、
過去に授けられた男爵位や子爵位はなくならない。一般に、爵位の継承
者、通常、長子が、二番目の爵位を名乗る。つまり『小公子』の場合、
ドリンコート伯爵家は、フォントルロイ子爵位を持っていて、継承者で
あるセドリックが、この爵位を名乗って、フォントルロイ子爵となって
いる)。

横道の話だと云いながら、ますます横道に逸れて行く。これは「スワン」
についての話である。

フランシス・バーネットの『小公女』を、何十年振りか、十年振りか、
久し振りに読み返してみると、(後半三分の一ぐらいであるが)、バー
ネットは話の造り方が天才的に上手だとつくづく思った。どことなく、
道徳説教的な雰囲気があるが、こういう書き方や話になって仕方ない時
代背景があるのだろう。

それはとまれ、訳者解説を読んでいると、作者は、フランシス・エリー
ザ・ホジスン・バーネット(Frances Eliza Hodgson Burnett)だとあ
る。男性の Francis と、女性の Frances を区別するため、わたしだと、
フランセス・バーネットとカタカナで書くが、それはともかく、ミドル
ネームが二つあるので、珍しいとも思ったが、解説を読んで行くと、元
々の名前は、フランセス・エリーザ・ホジスンで、スワン・バーネット
という医者と結婚して、姓がバーネットに変わった。彼女は、スワン・
バーネットと別れて、元のホジスンに帰ったが、そのまま、バーネット
いう姓を使い続けたので、今日、フランセス・バーネットとして知られ
る。

ここで、フランセス・ホジスンが結婚した、スワン・バーネットいう名
前を読んで、どこかで聞いたことのある名だと思った。ファンタジー作
家に、そういう名前の人がいた記憶がある。しかし時代がだいぶ違って
いるのと、その作家は、考えてみて、トマス・バーネット・スワンだっ
たことを思い出した。この場合のスワンは、綴りが、Swann で、白鳥の
スワンとは少し違うが、音の上では、白鳥という意味である。

白鳥というのは、日本人の姓で、そういうのがあったように思うし、名
前だと、正宗白鳥という文筆家がいた。しかし、トマス・バーネット・
スワンというのは、ファンタシー作家として、ロマンティックで綺麗な
名だとむかし思った。確か、妖精が出て来たり、神話的な存在が出てく
る作品の作者だったと思ったが、作品が思い出せない。アマゾンで調べ
て見ると、『薔薇の荘園』と『ミノタウロスの森』の二つしか訳本がな
い。

アマゾン・アメリカで調べて見ても、単行本としては、五、六冊しかな
い。寡作な作家である。『薔薇の荘園』は中編三篇を集めたもので、長
編作品ではない。『ミノタウロスの森』は、多分、長編だと思う。この
作品に対応する英語の本は、The Forest of Forever と Day of Minotaur
の二つがあるが、どちらの翻訳なのだろうか。また、わたしは昔、森に
住む若いミノタウロスを主人公としたファンタシーの本を部分的に読ん
だ記憶があるが、あれはトマス・バーネット・スワンのものだったよう
な気がするが、どうも英語の本の二冊とも、話が違っているように思え
る。誰か別の人の作品なのだろうか、と思う。(タイトル的には、The
Forest Forever ではないかと思うが、話が少し違うような感じがする)。

トマス・バーネット・スワンの名で思い出したのは、『最後のユニコー
ン』という作品であるが、多分、スワンの作品ではないだろうと思って
いたが、調べると、ピータ・S・ビーグルである。確かに、ピーター・
ビーグルが作者だった。
何時頃のことだったか。ある出版社が、ファンタジーの現代・過去の傑
作を、ペーパーバックで発行していた。このシリーズは、表紙が非常に
美しく、この絵を描いていた画家の画集を手に入れたはずである。非常
に美しい画集で、特別な場所にしまっていたが、思い出すと、過去三十
年近く、見ていない。過去二十年間かも知れない。捨てたことはない筈
なので、どこかにあると思うが、どこなのか。

『小公女』のフランセス・エリーザ・バーネットに戻ると、バーネット
がこういう話を書いていた時代は、社会が暗い面を多数持っていたし、
今日に比較して、色々な面で不公平で、また厳しい時代であったと思う。
しかし、貧しく厳しい時代であり、社会であったが、どこかに夢があっ
たとも思える。この「夢」というのは、「未知の土地」がまだまだ無限
にあると、確信できた時代だということである。現代においても、実は、
「未知の土地」あるいは「未知の領域」は無限にあるが、人々も社会も、
「未知なること」に対し、関心を抱かなくなった時代のように思える。
きわめて皮相な「現実主義」が横行している時代だと思う。

(それにしても、ピーター・ビーグルの『最後のユニコーン』のアマゾ
ンのページを見ていて、ふと、中古本価格を見てみて、驚愕した。文庫
本で、5700円から5800円もしている。単行本は、3200円ぐ
らいであるが、無茶苦茶に高いとも思う。この文庫本は、昨年10月末
にオークションで、150円で落札したが、こんな値が付いているのか
と思う。このあいだ、ある知り合いに、何か面白い本はないかというの
で、『ジェニーの肖像』とか『愛はすべての上に』などを紹介したが、
ダフネ・デュ・モーリアの処女長編である『愛はすべての上に』は、中
古品で、8千円から1万円の値が付いているので、そんな金額の本では
ない、と記しました。そこまで出して手に入れるほどの本ではないとい
う意味です。何か無茶苦茶な値が付いている)。


----------
添付画像
上の絵)ピーター・S・ビーグル『最後のユニコーン』表紙
下の絵)トマス・バーネット・スワン『薔薇の荘園』表紙

ビーグルの絵は、英語のペーパーバックの本の絵をそのまま転用してい
るようです。こういう絵で、ファンタシーのシリーズが出版されていた。
『薔薇の荘園』は萩尾望都の絵ですが、彼女の絵は、スワンの作品には、
似合わないと思う。

_

 

「夢のヴェネツィア」

 投稿者:Miranda Welrech  投稿日:2018年 1月 6日(土)09時10分34秒
返信・引用
 
新しい年となりました。あるいは、新しい「春」が訪れたとも。

「夢のヴェネツィア」というのは、「ヴェネツィアへの道」と云う名
の絵があり、ここから派生しています。
そういう名の絵を他の人も描いているかも知れませんが、ここで云う
「ヴェネツィアへの道」は、わたしが30歳頃に描いた水彩画です。

この頃は水彩画を描いていたというか、絵に着色するとき、水彩が手
軽であったということです。この十年ぐらい、昔のような水彩はない
のかと捜しているのですが、絵の具の種類が大きく変化してしまって、
アクリル絵の具とか、何かよく分からない。

それはともかく、「ヴェネツィアへの道」という絵は、これは、夢で
何かを見て、それを絵に描いて、着色したのだと思う。
この絵は、割と小さな絵であるが(B5の紙に描いているはず)、い
までもどこかにあるはずである。当時としても、下手な絵だとは思っ
ていたが、いま描く絵よりは、ましな絵のはずです。(昔は、ほぼ毎
日、絵のスケッチとかしていて、いまよりデッサン力があった)。

絵柄は、半分裸身に近い(ただし、何かローブのようなものをまとっ
ていたはず)青年が、緑の葉のついた杖を持ち、真っ暗な洞窟から出
て来ている情景である。真っ暗な洞窟は、この人物を囲んで、洞窟の
出口の縁が周りに描かれていることで表現されている。そして、この
人物の前には、高い山から見晴らしたような眺望が開けていて、足下
にある地面から、連続しているように、左右に曲がった長い小径が、
眺望のなか、遙かな下方へと続いている。そして、この道の先に、幽
かに都市か邑のような構造があって、道はそこへと続いている。この
遙かな都市、しかし、歩けば、すぐ到達できるような感じの都市が、
ヴェネツィアと呼ばれる。

歴史的に、およそ二千年前頃から造られ初めて、中世から近世にかけ
て、海洋国家として名をはせたヴェネツィアと同じ名であるが、この
絵の「ヴェネツィア」は、スペインと同盟して、オットーマントルコ
をレパントの海戦で打破したヴェネツィアのことではない。

しかし、起源的には、この「ヴェネツィア」から名前が来ていること
は間違いがない。何故、ヴェネツィアという名にしたのか、いまとなっ
ては分からないが、到達すべき目的地として、「ヴェネツィア」が名
付けられている。

この4,5日か1週間、色々と思うことや、考えることがあったが、
人はそれぞれに、自分が目的とする「何かの場所」を持っているのだ
ろうということがある。わたしは、色々な名前を付けているのと、そ
れぞれの名に関係して「物語」があるので、「ヴェネツィアへの道」
の物語も、何時か具体的な話として書きたいとも思っている(思って
来た)。

『灰羽の悲歌』という話を書いていると云うか、途中まで書いて、先
をどうするのか、考えていくと、迷宮のようなことになって、一旦そ
れは筆をおいて……というのがあった。『銀の薔薇のソネット』とい
う話も書いていたが、途中で、筆が進まなくなった(この話の設定の
延長の一つで、『灰羽の悲歌』が出て来たのだと思うが、色々な話を
考え、幾らか書いて、筆を置くと云うことを繰り返しているので、整
理して、表にでもしないと、何を書いていたのか、何を構想していた
のかよく分からない)。

------

話として纏まりがないが、「ヴェネツィア」という名前に関連して、
昨年の十一月だったのか、秋の頃に、十巻近くの本をまとめ買いして、
ほとんど一気に読んだ話に、オットーマントルコ帝国の大帝スレイマ
ン一世の治世において、ハレムにあって活躍した、「寵姫」という称
号を持った後宮側室ヒュッレムを主人公とした少女漫画を思い出した。

非常に面白い話で、歴史漫画としてはちょっとおかしい(というか、
非常におかしい)が、日本人向けの少女漫画なので、こういうスタイ
ルになるのだとしか云いようがない。

篠原千絵の『夢の雫、黄金の鳥籠』で、現在、10巻まで出ている。
次が読みたいというところだが、大体、半年に一巻刊行なので、なか
なか話が進まない。10巻が出たのが、昨年の8月10日なので、す
でに4ヶ月経過している。そろそろ予約できるように思う。

以下が10巻のアマゾンのページである:
https://www.amazon.co.jp/dp/4091394353/

本の表紙が黒の枠に入っているが、この作品は、奇数巻は表紙の絵の
背景は白で、偶数巻は、この10巻のように、黒い枠が付いている。
一応、歴史漫画なので、スレイマンとヒュッレムの史実の歴史を調べ
ると、話の今後の進行が大体分かるはずであるが、調べていない。ス
レイマンの治世は長く、遠征の回数も多数あるので、10巻で、よう
やくスレイマンの治世4,5年目で、第三回遠征を計画している・実
行を開始しているのでは、先がどうなるのか、よく分からない。ヒュッ
レムは、寵姫として、例外的な地位をオットーマン帝国の宮廷で築い
た人物なので、まだ先が長い。どこかで話を打ち切って、あとは、年
代記風に何十年かの時間を一巻で終わらせるという手法かも知れない。
まともに全部書いていると、40巻ぐらい必要になる。しかし、多分、
二十巻ぐらいで終わると思う(その前後だと思う)。

あしべゆうほは、『クリスタル・ドラゴン』は一体どうなったのか、
何か知らないという思いであるが、物語を精緻に設計して完成させる
作家もいる。

大和和紀の『イシュタルの娘』は、16巻で完結した。16巻は昨年
の11月13日にリリースであるが、これが最終巻とは思っていなかっ
た。最後まで読むと、話が完結しているので、はじめて最終巻だと気
付いた。戦国期から江戸時代初頭にかけて活躍した才女、小野於通の
生涯を描いた伝記漫画であるが、最後の巻の作者の言葉を読むと、こ
の話は、ほとんどがフィクション(作者の創作)だと分かった。
わたしも、小野於通については、だいぶ前から興味があったが、於通
の生涯についての資料とか、本とか見たことがない。大和和紀が最終
巻の後書きで、小野於通については、名前が有名であるが、歴史的資
料がほとんどなく、実像が不明なので、色々と想定して、人物伝記を
造ったと書いているので、ああ、なるほどと思った。

https://www.amazon.co.jp/dp/4065104793/

つまり、歴史史料がほとんんどない。それにしても、この話で描かれ
る、幕府大奥の実質的な創成者である春日局の姿は、たぶん、これが
実像ではないかと思える現実感がある。春日局を描いた漫画とか話は
あるが、どこか美化しすぎているような気がしていた。

とまれ、複雑な歴史を背景に、大勢の登場人物が出てくる、錯綜した
物語を、ここまで分かりやすく、しかも無理なく完成させたのは、大
和和紀の作家としての力量というしかない。

----------
添付画像
上)『イシュタルの娘』16巻表紙
下)『夢の雫、黄金の鳥籠』4巻表紙(この少女はヒュッレム)

_

 

古き年は過ぎ去り、新しき年を

 投稿者:Miranda Welrech  投稿日:2017年12月31日(日)23時06分47秒
返信・引用
 
振り返って、本年2017年は、2月に新年の挨拶を書いた後、
ほとんど何の書き込みも活動もなかったです。

来年、2018年は、と記したいですが、人生の予定は変化する
し、人生にあって、「予定」など果たして立てられるのかとも思
う。

昨日というか、正確には、今日になるのですが、眠ろうと思って
横になって考えていると、あと何年生きているのだろうかという
ようなことを考えました。

あと20年。それは難しいと思った。では10年。十年ぐらいの
時間ならまだ生きていられるようにも思ったが、それも、人間の
身にあって不確かなことでしかない。

思って見て、人生は何と「夢」のように過ぎ去って行くのだろう
か。それぞれの人生の過程で、十年ごと、あるいは五年ごとで、
何があったか、何をしていたかを考えると、時間のなかで、十分
に色々なことをしてきたと思う。従って、「あっという間に時間
が流れ去る」というようなことは、なかった。

それぞれの年代でそれぞれの年と時間で、意味があったかなかっ
たかは別に、色々なことをしてきた。それが地上的な、世俗的な
成果を結んだか否かと云うことで、時間の充実度を測ることはし
ないので、自己の内的な生の充実で考えれば、十分に内容のある
歳月であり、レーベンのツァイトだった。

ただ、いまになって感じるのは、すべて「空しい」という思いで
す。伝道者の言葉は十代に読んで、古代の賢者の智慧の助言は理
解できたと思った。従って、伝道者の述べた言葉の通りに、今、
ときの経過を知って、死を前にするときに至って、後悔すること
は多々あるかも知れないが、人生をもう一度やり直そうとかは思
わない。

ただし、悪魔の神(ダイモーンの神)が現れて、時間を遙かな青
春の頃に戻そうと云えば、それに同意するかも知れない。生きて
来た時間や、その内実を空しいとは思っても、これがわたしの人
生であるなら、それはそれで良しとすべきである。ダイモーンが
別の人生の路を用意するというなら、それは、この人生を否定し
てではなく、いま一つの別の人生を生きるチャンスを提供しよう
云うことで、この人生を否定して無価値であるとして、別の人生
を選ぶわけではない。

この人生の後に、別の新しい人生がありえるということなら、そ
れはまた望ましいし、死後に人の魂を待っている定めは、再びの
この世界、あるいは別の世界での、「覚醒」であろうと思う。

-------

ともあれ、聖なる冬至は過ぎ去り、新しい年が訪れようとしてい
る。
過ぎ去る年は、いかなることがあったとしても、人生のアーカシ
アに銀色の記録として残っている。それが望ましいか否かは、人
の意志や望みではいかんともし難い。しかし、実存の生の刻印は
神聖なものである。

来たるべき年は、光に満ちて、闇はそれに打ち勝つことができな
かった原初の時間が、透明な流れのなかに幽かに垣間見える年で
ある。年ごとに、この真理は変わらない。

人は、闇の無から生まれ、やがて、闇の無へと還って行く。
だが、その生の過程は、闇を越えた光に通じた過程である。人は
かくて、或る意味で、「永遠の命」を持っている。永遠は、いま
とここにあるとも言える。

新たな年を迎えるにおいて、各位にあられましては、「永遠の光」
の惠みが、その一日一日の日々の生にありますように。

2017年の最後の日に、かく記し、
翼の主の祝福をかく冀います。

幸いなるかな心貧しき者、
天の国は爾らの魂にすでに宿っている。


Miranda Noice Welrech en StirLizania,
a 22:50 en decembre, 2017

_ khaire

 

どうもおかしい(パスがハッキングされている?)

 投稿者:Miranda Welrech  投稿日:2017年12月28日(木)01時31分12秒
返信・引用
 
すでに hidden で、非表示になっていますが、どこかの「荒らし」のような
投稿があった。非表示にしようと、掲示板を見に来ると、そんな投稿はない。
奇妙なので、管理者モードに入って見てみると、その投稿は、すでに非表示
になっている。

わたしは、非表示にした覚えはないので、ここの掲示板のパスとか、誰かに
知られているのだろうか。あるいは、運営会社の tea-cup の方で、自動的
に非表示にしているのだろうか。そういうことはないと思うので、奇妙であ
る。パスワードを変更した方がよいのかも知れない。

----------

ところで、Youtube に行くと見ることが出来るが、Pink Froyd の Wish You
Were Here という曲に、動画がついたものがあるが、この歌の歌詞に、Did
you change your hero for ghost (君は、自分の英雄を、幽霊と取り替え
たのかい)というのがあるが、これが、動画の画像で見ると、「英雄」とし
て、演説するレーニンの絵が出てくる。

レーニンが英雄とは、どういう思想かと思う。レーニンは、死ぬ前、スター
リンについて、彼を後継者にしてはならない、あれは、冷酷で粗暴な男だ、
と云っていたというが、スターリンは、粗暴どころでない、大虐殺の暴君で
あるが、ソヴィエトの歴史を見ればスターリンが粗暴だとか云っても仕方な
いような気もする。

独裁専制国家では、誰が指導者になろうと、大虐殺や粛正は避けられない。
大陸中国も、北朝鮮も、そして南朝鮮も同様である。

_
 

"Echoes" by Pink Floyd

 投稿者:Miranda Welrech  投稿日:2017年 8月13日(日)04時23分6秒
返信・引用 編集済
 
いまは昔ではなく、昔のことが思い出されるというのも年齢をとったからかとも思う。
たまたま、映画『薔薇の名前』のタイトル曲を聴いていて、何か別の変わった音楽はな
いのだろうかと思った。音楽ファイル(MP3とmidi)の入ったフォルダーには、ピン
ク・フロイドの『夢に消えるジュリア』が入っていた(昔、ここにコピーして入れたの
で、これは単一の曲をどこかで拾ったのか、またはアルバム『ピンク・フロイドの道』
全曲のMP3を、ダウンロードして、そこから、Julia Dream だけを別にコピーしたの
か、忘れてしまったが、Youtube で調べると、非常に、興味深い動画がついた曲が、ア
ップロードされていた。

これは10日のことで、次の動画である:



これをローカルに保存して、それ以外に、『シッラス・マイナー』なども保存していた
が、昨日、12日にローカルでプレイヤー再生してみると、途中から、音楽がなくなっ
ている。そんなはずはないので、これはローカルへのダウンロード失敗だと思い、もう
一度、ダウンロード・変換で保存すると、今度は正常に再生できる。途中、半分ぐらい
のところで、音が出なくなっていたファイルは、再度ダウンロードした正常なファイル
に較べて、3MBほど小さかった。つまり、このサイズが、消えた音に使っていたファ
イルの領域の大きさになる。

別の動画も再生してみると、こちらは、動画が途中で出なくなっているので、これも再
度ダウンロードすると、正常なファイルとなった。前のファイルが30MBぐらいだっ
たのに対し、正常なファイルは、60MB近くある。30MB近く欠落すると、動画自
体が、消えてなくなることになる。

そうこうしていると、朝になったが、Youtube を調べていると、Pink Floyd の"Meddle"
全曲がアップロードされている。これは、動画というより、曲名だけが表示されている、
音楽ファイルと云ってよく、ローカルに保存してみると58MBしかない。「メッドル」
全曲で47分弱あるが、この動画が58MBということは、これは、MP4に変換しても、
大体これぐらいの数字である。次のURLにある:

https://www.youtube.com/watch?v=QdDiE1ljUwQ

この動画のコメントで、「エコーズは我が人生、我が宗教なり」と、Der Fuhler という
名のユーザーが書いている。それに対するコメントで、「総統(Der Fuhler)、その通り
だ」と誰かレスしている。
>> Echoes is my life, My religion.
このように総統が云っている。

なるほど、と思い、わたしは、バッハのカンタータのなかのコラールの歌詞で、
> Echoes bleibet meine Freude, meines Herzens Trost und Saft.
とか云えないかと思った。コメントを書きたくなったが、昔、Google に登録した適当な
ユーザー名が出てくるので、コメントには書かなかった。

「メッドル」全体をローカルに保存した後、「エコーズ(Echoes)」だけを、ローカル
で聞いてみて、素晴らしい傑作だとあらためて思った。ピンク・フロイドは、半世紀前、
二十歳頃に、このような傑作を造っていたのだと考えると、人間の才能の偉大さという
ものが痛感される。ピンク・フロイドは、当時は、四人組のグループだったが、何かの
事故で、四人が全員、「メッドル」発表の後に世を去っていたとしても、彼らの名前は、
歴史のなかで燦然と輝き、人類の存続する限り、忘れられることはないだろうとも思っ
た。

なお、「メッドル, Meddle」は、

One of These Days
Pillow of Wind
Fearless
San Tropez
Seamus

Echoes

の全部で6曲で構成されている。レコードだと、A面とかB面があるが、わたしは、昔、
Echoes があるのが、A面で、One of These Days で始まるのがB面だと思っていたが、
どうも、One of These Days のあるのが、A面で、B面に Echoesがあるようである。B
面全体が Echoes 一曲である。

上の「メッドル」動画だと、「エコーズ」は、半分ぐらいのところから出てくるので、
「エコーズ」単独の動画(というか、音楽)の投稿は、以下にある:



曲冒頭の、何とも表現しようがない、柔らかい鋭さを持った、甘美で透明な電子ギター
の弦音が奏でるメロディが、この世のものとも思われない美しさを持っている。ピンク
・フロイドは、電子音楽のマインドミュージックの開拓者で、先駆者で、多分、最高峰
だと言える。彼らは、開拓者であって、電子音楽は、まだそれほど自由自在に、作り出
せる時代ではなかった。従って、この信じがたいような「音・メロス・メロデス」は、
電子音楽ではあるが、人間が実際に演奏している、非電子音楽でもある。

どこにもない、奇蹟的な「音楽の宇宙」を作り出している。しかし、この宇宙に心を旅
するのは、精神的には、非常に重いことだとも言える(精神のエクスタシーであるが、
それは、非常に大きな心体的疲労感をもたらす[心体=psychosomatic, プシューコソー
マティック]。ψυχοσωματικη)。

人が死後に辿り着く世界は、プレンセス・マリー・ドルレアンが云っているように「華
麗なる静寂の暗黒」であろうと思う。静寂のなか、意識はなく、しかし、魂はあり、永
遠(アイオーン)における休息があるだろう。死を考えるとき、時に、「無限の恐怖」
を実感するが、死の事実性は、人の意識の思考や思念・私念を越えて、事実である。

人は、死を肯定しても、否定しても、受容しても、拒否しても、死ぬ。人が生きている
あいだは、死はない。他方、人が死んだとき、死を恐怖する「わたしの意識」は存在し
ていない。それ故、死は、わたしにとって「存在しない」というのは、消極的には、死
について幾ら考え苦しみ、あるいは期待しようと、死は来るときに来る、それ故、死に
ついて、考え悩むことは意味が無い、という意味である。しかし、積極的には、死は、
人の創作や技術や念慮に先行して、「闇の光」として、人の魂の宿命の故郷としてある
という意味になる。

_

 

「月面で幅跳びをすると、どれぐらい跳べるか」

 投稿者:Miranda Welrech  投稿日:2017年 7月15日(土)15時53分16秒
返信・引用
 
最近は、色々と事情があって、掲示板もウェブサイトも暫く中断し
ていました。

たまたまヤフーの「白痴袋」を見ていると、天文学か宇宙物理学関
係の質問で、月面で、幅跳びをすると、どれぐらい跳べるのか、と
いうのがあったので、昨日から答えを考えて来たのですが、ようや
く答えを造ったので、これを投稿しようと思うと、質問は締め切ら
れ、「投票に移行しました」と出て来ました。回答はできなくなっ
たのでした。ここに、投稿しようとした回答を載せます。

------------------------------------------------------------

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14176393899

月面で走り幅跳びしたら、地球上で跳んだとき

chielien_3459874f330ed8b7723eac628さん

2017/7/813:41:08

月面で走り幅跳びしたら、地球上で跳んだときの何倍の距離、跳べるでしょうか?

ただし、
地球と同じように空気があって宇宙服を着なくても良いという条件で。

    共感した 1

閲覧数:    47
回答数:    8

---------------------------------------------------

回答

物理学的に、かなり丁寧に考察し、検討しつつ説明を書いていると、3000文字を
越えたので、詳しい説明は略して、結論だけを述べます。

月面上で、助走を付けて幅跳びをすると、地球上での場合と較べて、理論的には、最
大2.44倍、実際は、2倍程度の跳躍距離になると思えます。

月面での走行とか助走の仕方とか、それなりに練習して慣れなければなりませんが、
慣れないので、うまく跳べないというのは答えにはならないと思います。確かに、月
面上では、地面を脚で蹴っても、十分なエネルギーを獲得できないというのはありま
すが、助走で、複数回地面を蹴ることで、結局、地球上でと同じだけの運動エネルギ
ーを獲得できると考えられます。(間違っているかも知れない。大学一回生レベルの
古典力学の初歩的問題だが、長くこういう問題に関わらなかった)。

------------

なお、最大2.44倍という数字は、これは6の平方根です。
月面で、垂直に跳び上がると、地球上と同じエネルギーで地面を蹴った場合、重力が
6分の1なので、月面では、6倍の高さまで跳び上がります。しかし、跳び上がった
後は、地面に降りてくるのですが、このあいだの滞空時間は、6倍になるかというと、
実は、6の平方根倍にしかならない。これが、2,44です。

水平方向の走行や運動は、地球上と同じ式の形になるので、最後に勢いを付けて、跳
び上がる時、どれぐらいの時間、空中を滑空するかで、幅跳びの到達距離が決まる。
この滞空時間が、月面では、6の平方根倍が最大値になるので、上に書いたような結
論になります。

(なお、何故平方根かという理由も少し書いておきます。ある運動エネルギーで、垂
直に上に跳び上がった時、変位(移動距離)は、「加速度係数X変位X質量=重力X
変位=運動エネルギー」という式から出てくるのですが、これは、加速度係数が6分
の1の月だと、同じ運動エネルギーに対し、質量は不変なので、変位が6倍になる。
他方、滞空時間は、「運動エネルギーは、速度の二乗に比例する」という式と、等加
速度運動では、「速度=加速度係数X経過時間」という式から、6の平方根になるの
です)。

------------------------------------------------------------

なお、回答が8個ついていますが、すべて間違っています。あるい
は、回答になっていない。
ごく初歩的な古典力学の問題なのですが、まともに考えて回答する
人がいないという実情は、憂慮すべきことかも知れません。
わたしの回答も、どこか抜け穴があるような気がしますが、いまの
考えでは、これでよいようにも思います。

月面では、重力が地球の6分の1ですが、水平方向の運動を考える
と、運動方程式は、地球上と同じになります。つまり、重力が6分
の1というのは、垂直方向の運動については、直接に影響してくる
が、水平方向の運動には直接には関係しないのです。
というような、基本的なことが理解できていない人が、回答するの
ですから、群盲象を撫でるという状態です。

日本では、若い人の思考力や教養や、探究心が弱くなっていて、こ
のままでは、日本は文化国家として世界に遅れを取ってしまうと云
う危惧は本当のようです。

_
 

最近の状況・小説を書いていました

 投稿者:Miranda Welrech  投稿日:2017年 6月27日(火)01時20分19秒
返信・引用
 
ここ、しばらくは、ウェブサイト関係の作業ではなく、小説
を書いていました。同人誌を造っているのですが、作品がな
いので、わたしが書かなければ同人誌が発行できないという
ような状況です。

小説はもう長いこと、まとまったものが書けたことがなかっ
た。一番まとまりのある話で書けたのは、何と、16,7年
前に、平安時代・王朝時代を舞台に、特殊な霊能力を持った
姫君(最初は中納言の姫君で、やがて、大納言、そして関白
太政大臣か左大臣にまで上り詰める名家の姫君)が、どうい
う訳か、20世紀半ばの同じ年齢の少女と精神交流と、精神
の移行を行い、平安時代にいるのは、実は、昭和初期の少女
の意識であるという話を書いたのが最後で、それから後は、
どうも、まとまった小説が書けなくなった。

5,6年前から、小説を書き上げようと努力しているのです
が、どうしても話が進まない。少し書き出すと、筋が複雑に
思えて、先に進めないというのがある。どういう理由で書け
ないのか、よく分からなかった。

しかし、1週間ほど前か、イメージ小説というものを書いて
みたところ、これは、うまく終わりまで書けた。非常に珍し
いし、ブレークスルーだと思った。あと、2,3は書き上げ
てから、別のことに行動を移そうと思っていたが、今日、と
いうか、すでに昨日になるが、朝10時頃書き始めると、夕
方から夜にかけて、ほぼできあがった。未だ完成していない
が、ここまで書くと、どこで、終わりの情景を入れても、そ
れは、そういう終わり方なのだと云うことになる。つまり、
作品としては、できあがった訳です。

そこで、何故いままで小説が書けなかったのか、今回の成功
経験で、理解できることがあった。今回は、イメージストー
リと云っているように、情景が一つあって、それを軸に話を
描いていくと云うだけの作品で、作品に特に、構成とか、内
部構造の設定とか、色々なプロットとかを考えなかった。考
えなくとも、作品が終わりになるためには、必要な要素があ
る訳で、こういう風に書くと、話が完成した。

そこから、いままで小説が書けなかった理由というのが、何
となく分かって来るように思える。いままで、小説を書こう
と考えると、かなり緻密な作品構成・物語の設定を行ってい
た。こういう物語の枠組みの構成は、数分とか、十分、二十
分ぐらいあると、実に簡単に色々なものが構想できる。しか
し、ここに、小説が書けない理由があったのだと思う。

十分、二十分か、あるいは半時間か一時間か、それぐらい物
語の構成や構造を、主題を考えると、かなり複雑なものを、
実は考えていることになる。しかし、構想段階での話の展開
は、実に簡単に色々と思いつくので、ここまでの話の構成で
十枚ぐらいとか考えて、全体で、50枚程度とか考えて、こ
れを実際に書き出すと、ここまでで、10枚程度と見積もっ
た数字が、相当にずれた数字だったということになる。10
枚程度の内容だと考えたものは、実際に書いてみると、20
枚、30枚、あるいは50枚に匹敵する話であったりして、
そうすると、書いていて、こんな詳しく書いていると、全体
でどのぐらいの長さになるか分からない、と感じてしまう。
しかし、そういう長さが必要な複雑な構成を実際に設定して
いるので、長くなるのは当然のことである。

つまり、十分とか二十分とかで、ごく軽く物語りの構成を構
想してみると、実はそれだけで、すでに、百枚とか二百枚の
話を構想していることになってしまう。
50枚の話を構想すると、それは250枚とか300枚の話
である。100枚の話だと、500枚ぐらい枚数が必要にな
る。そんな長編を考えているわけではないが、構想すると、
特に深く考えなくとも、非常に複雑な話を設定してしまう。
これを、短く書こうとすると、長くなりすぎると云う自覚に
なって、そこで停まってしまうのだと思った。
あまり話の構成を考えない方がよいということになります。
考えなくとも、書いていると、複雑になってくるので、書く
前から、複雑な構成を考えると、実際に書き始めると、色々
なものがあまりにたくさんあって、込み入っていて、先が見
えなくなるということのようです。

----------

というようなことを、痛感した。

ところで、先月か、今月に、描画ソフトでクリスタ(クリッ
プスタディオ)を購入したが、マニュアルも購入して,少し
視てみると、何と、ペンツールに、Gペン、かぶらペン、丸
ペンとかがある。何か昔のアナログの時代のような感じであ
るが、デジタルの描画ツールに、こういうものがあるという
ことは、アナログと同じような使い方ができるのなら、非常
に便利です。

絵をデジタルで描くとき、一番困るのは、ラインが綺麗に引
けないということです。ペンとタブレットを使うのは当然な
のですが、紙の上だと、もっと滑らかな綺麗な線が引けるの
が、タブレットだと、ラインがぶれるし、太さが一定しない。
しかし、クリスタだと、そういう問題は解決するようなので、
自由にラインが引けるということにもなる(本当は、イラス
トレータをすでにインストールしているので、これを使うべ
きだが、アドビのイラストレータは、使い方を覚えるのがた
いへんだと思います。15年以上、フォトショップを使って
いますが、いまだに分からない機能が一杯あるという状態で
す。フィルターだけで100ぐらいあるはずですが、それぞ
れパラメータが複数あるのが普通で、フィルターの使い方の
マニュアルというのは、ないのです)。

そういう話はきりがないとも言えるので。ここまでです。

_
 

フェレスティアの絵などについて

 投稿者:Miranda Welrech  投稿日:2017年 6月20日(火)02時43分54秒
返信・引用
 
「ミラディス習作画展示室」で、フェレスティアの絵とか、ノイスの絵に
ついて、これらは、もっと大きな絵があったはずである、と記した。実際、
両方とも、更新日付が、2001年2月頃の絵であるが、それから十数年
間、放置していたのかというと、それもおかしい。ただ、二十年も前の画
像ファイルになると、数テラバイトを越えるデータ・ファイルを抱えてい
る今となると、なかなか、捜すのが難しい。

ハードディスク内部の構造が込み入っているだけでなく、累積的・継続的
に新しいファイルやデータが蓄積されて行くことがあって、古いファイル
が、どこにあるのか、記憶が上書きされるというか(単純に、忘れたとも
云いますが)、どうも分からない。

それは、とまれ、初期のフェレスティアやノイスの画像文書は、未だに見
つからないのですが、2013年頃に、二つの絵について、ライン修正や、
絵としての完成を試みたファイルを見つけました。試みたというより、ほ
ぼ完成したのだと思います。

ノイスの絵は、右手のワンドの先に、文字が二つ記されているが、これが
描かれていない、従って、この絵は未完成だと書きました。またフェレス
ティアの絵は、よく見ないと分からないのですが、両耳に、イヤリングの
ラフな線があり、イヤリングを描く予定だったことが分かる。また、フェ
レスティアの頭頂には、ステファニ(カチューチャの一般的な呼び方)が
あり、これは、どう見ても、描きかけに見える。

しかし、こう云ったことすべて、2013-2015年更新のファイルで
は、画像処理で完成している。ワンドの先の二文字も描いている。何より
画像が、相当に大きいです。フェレスティアだと、2013年の更新で、
幅1800x高さ2700ピクセルある。2001年頃に、こんな大きな画像が描
けたとは思えないので、どこかの時点で、画像自体のサイズを拡大して、
それに応じて、ラインを描き直した可能性が高い(2013年)。

ノイシア(ノイス)の絵だと、幅1410x高さ2100ピクセルの絵がある。こ
れは、2015年に更新日付がなっている。
添付画像は、ビューワーで見た絵のキャプチャですが、確かに、ワンドの
先の二文字は、仕上げている。(これは部分です)。
ノイス(ノイシア, NoiceA)の絵は、二文字が完成している絵と置き換え
るとして、フェレスティアの絵は、どうしようかと思っています。やはり、
モノクロ・ブルー色にして、置き換えるというのがよいかと思います(こ
の絵はフルカラーなのですが、事情があって、フルカラーの絵は、公開し
にくいのです。フルカラーの絵を見たいという方は、掲示板管理者宛メー
ルでお知らせ戴ければ、ページを造り、そのURLをメールでお知らせし
ます。しかし、態々手間をかけて見るほどの絵ではないとも思います。た
だ個人的には、カラーの絵は、かなり美しいと感じます)。

-----------------
添付画像:ノイシア(ノイス)の2015年の絵(部分)
右手のワンドの先の二文字が描かれている。
_

 

レンタル掲示板
/5