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問いかける過程としてのグノーシス

 投稿者:Miranda  投稿日:2019年12月19日(木)16時55分28秒
  通報 返信・引用
 
> こんにちは。
> グノーシスに魅せられた者です。
> 自分はうつなどの精神疾患があり
> 本を読むということが苦手であり苦痛です。
> グノーシスに関する本も何冊かあり何回も読み回したいのですが
> 病気が許してくれません。
>
> どうしたらいいでしょうか?
> アドバイスいただけると幸いです。

こんにちは。

「うつ」と云うのは、医師がそう診断されたのですか。その場合、
「単相鬱」ということでしょうか。(「両相」は、躁状態と鬱状態
が交互にある場合で、「鬱」しかない場合は「単相」と云います)。

または、医師の診断とかではなく、ご自分で、気分が落ち込むとか、
憂鬱とか、そう常に感じると云うことでしょうか。

「グノーシスに関する本」とは、どういう書籍を念頭されているの
でしょうか。

----------

グノーシスは、本を読むことで知るものではなく、本を読むことも、
グノーシスへの関わりの契機となるが、グノーシスは簡単に言えば、
「わたしは何か」「わたしは誰か」という「自己のありよう」につ
いての疑問が根本にあります。

「わたしは日本人である」「アメリカ人である」というのは、「わ
たしは何か」という答えになります。「わたしは男である/女であ
る」というのも、「何であるか」の答えになります。

どこで生まれ、どのように育ち、家族や知人、友人などには、どう
いう人がいるか、それらの人とどういう関わりを持つか。何を仕事
にしているのか、学生なのか、何もしないで無為に過ごしているの
か、色々なありようがある訳です。

「グノーシスの問い」は、「本来的なわたしは何なのか」という問
いです。つまり、いま生きているわたしが、自然なわたしで、わた
しであると思う人には、別にグノーシスの問いはない。何かがずれ
ている、本来のわたしは何か別のものであるように思う・感じると
いうのが、グノーシスの精神・自覚です。といって、もう一人のわ
たしがいるのではなく、「いまあるわたし」は、「本来のわたしの
一部である」あるいは「仮の姿である」、このように感じることが
グノーシスの気づきになります。

「グノーシスに関する本」には、本来のわたしへの問いについての
様々な考え方や、古代の人たちが、どういう風に問題を考え、それ
を、物語や神話の形で表現した例が述べられていて、それらの物語
や神話は、どういう考えが元になっているのか、本来の自分を、ど
のように考えていたのか、説明や解釈が書かれています。

しかし重要なのは、昔の人が何を考えて、どういう答えを見つけた
か、または探求したかではなく、いまのわたしにとって、本来のわ
たしとは何なのか、という問いになります。昔の人の考えたことは、
その参考資料にもなるのですが、昔の人の問いにおいても、答えは
分からない、というか、尋ねて、考えて行くことが重要だというこ
とが中心にあると言える。

例えば、「死」の問題があります。人は死ぬとどうなるのか。いま
から二百年前の日本は江戸時代ですが、その頃にも、何百万人もの
人たちが生きていたが、その人たちの名前も、人生も、ほとんど、
いまは分からなくなっている。いわば、「無」になってしまった。
そうすると、このわたしも死んで、二百年後には、無になっている
のか。いまは、もっと色色な記録が残るので、二百年後で、名前や
存在の記録は残っているかも知れない。しかし、四百年後はどうか。
千年後はどうか、一万年後はどうか。そもそも人類は、一万年後に
も、存在しているのか。

あるいは、「わたしの意識」は、死後にもあるのかないのか。死の
後には、わたしの意識や、わたしである自覚したり、認識する主体
は存在しないのではないのか。死後は「無」となるのか。

死の後、別の人として生まれてきて、またこの世に生きるのか。死
後、神の國とか天の国に入り、永遠に、そこで生き続けるのか。永
遠に生きるとはどういうことなのか。

死後にわたしは無となる。わたしとは何か? 「死後、無となる存
在」である。これは、「わたしとは何か」に対する答えになってい
る。死後に無となる存在がわたしだと、云うことに納得がいかない
場合、「わたしとは何か」という答えについて、納得がいかない。
別の本来のわたしが存在するのではないか。

グノーシスの問いとは、こういう問いです。しかし、このような問
いに、論理的、理性的に確かな答えはない。こういう問いは、「超
越的な問い」と云います。

超越的な問いは、論理的な答えがないのです。しかし直観的な答え
は存在することがある。直観的な答えが論理的に正しいのか否か、
論理的には分からない。しかし直観的に、「そうなのだ」と気づく
とき、それは「そうなのだ」ということです。

超越的な問いは色色なものがあり、それは幾ら理性で考えても、合
理的な答えは出てこない。しかし、あるとき、真理あるいは真実が
直観的に気づかれるときがあるかも知れない。

グノーシスというのは、このような問いを心に抱くことである。
「そうなのだ」という直観的な気づきをまた「グノーシス」とも云
う。何を気づいたのか、何を直観したのか、論理的には説明できな
いので、例え話や物語、神話で、その輪郭を表現する。これを、グ
ノーシス神話とも云う。グノーシス神話は、自分が何かを気づくた
めの階梯(はしご)のようなもので、みずから尋ねるのない限り、
グノーシス神話は、ただの物語に過ぎない。

わたし自身、答えなど知らない。死は無である。しかし、無である
死の向こうに、何かがあるだろうと思っている。再び地上に生まれ
変わって来るとか、天の国に行って、永遠に生きるとか、そんなこ
とではないと思う。

死は、無への落下でただただ恐怖であると恐怖しながら死ぬ人もい
る。人生を充分に生きたので、死後は無であるか無でないか、そん
なことには関心がないと思って死ぬ人もいる。死後、自分は天の国
・神の國に間違いなく迎えられるので、死は少しも怖くないとして
死ぬ人もいる。この世に生きていることはわずらわしいので、死ん
で終わりがあるのはありがたいと思って死ぬ人もいる。生きている
と、人生の失敗や悔恨の苦しみが絶え間なく心を襲う。死は、この
ような人生の敗北感や後悔、悔恨、生の惨めさからの永遠の救いで
ある、むしろ喜ばしいと思って死ぬ人もいる。死ねば、再び此の世
に生まれ帰ってきて、新しい別の人生を生きるのだと思って死ぬ人
もいる。自分はこの世で悪行を積み重ねたので、死後は恐ろしい地
獄に落ちるに違いない。地獄に落ちたくないと思いつつ死ぬ人もい
る。万物流転にして、この世に生を受けたものはすべて滅びる。こ
の理(ことわり)を知っているので、死は何も恐ろしいことでも何
でもないと思って死ぬ人もいる。

そして結局、死んでみるとどうなるのか。分からないのか、何か分
かるのか。自我や意識は、神経回路があるパターンを持っている状
態なので、死ねば、このような神経系のパターンは崩れる。従って、
死後には無しかない。バートランド・ラッセルはこのように考えた。
他方で、自我や意識は神経系のパターン活動だけではないという考
えもある。そうすると何なのか。何かよく分からない。では死後は
無ではないのか。何かよく分からないというのは、文字通り、分か
らないので、分からないことに、何か確定的に答えることはできな
い。

死後の生について云えば、グノーシスは、死後は無であるという。
しかし、無の向こうに何かあるとも云う。何があるか理性的には答
えられない。何があるかは、直観で知るのである。暗闇に光が閃い
たとき、何かが見える。これをグノーシスというのです。

とりあえず、考えれば考えるほど分からなくなってくる。
自分で答えを直観したい人。先の譬喩では、暗闇の中の光の閃きで
何かを見たいと思う人はグノーシスを尋ねるのがよい。しかし、す
でに答えは出ていると云うなら、自分で尋ねる必要はない。どこか
の宗教に帰依して、念仏や祈りを唱えていればよいという人は、そ
れでよいのです。

暗闇の中に光が閃くというのを、「照明体験」とも云うのですが、
また「悟りを開く」とも云います。しかし、こう云うと、本物の照
明体験、偽の照明体験、本物の悟り、偽の悟り、正統な悟り、逸脱
した悟りなど、色色な評価があります。

麻薬や幻覚誘導薬、精神開示物質を摂取すると、悟りを開いた体験
ができるという説もある。また悟りを開くため、断食や苦行や瞑想
を行うと、脳内麻薬が分泌されて、それが恍惚体験や悟りの体験で
あるという説もある。LSDで悟りを体験するのと、修行で悟りを
体験するのと、同じではないかという説もある。

しかし、それは違いがある。修行で経験する悟りは、修行したとい
う、人生の過程の結果であるとも云える。LSDの悟りは、LSD
を摂取した結果だということになり。ここで修行の有無が違ってい
る。

グノーシスは既存の世界観や死生観とは別のところで成立する何か
だとも云える。いったんグノーシスの照明を言葉にすると、それに
類似したものはいっぱいあるということになるが、違いは、グノー
シスの問いの過程があるかないか。グノーシスを探求する必然性が
あったのか、なかったのか。グノーシスはどこまでも理性的である
ことを維持する。神秘主義ではない。しかし、理性で問いを限りな
く尋ねて行く過程で辿り着くものがあれば、それは理性を超えてい
る何かであって、それは「神秘体験」である。理性を軽視あるいは
無視して得られる神秘体験とは、理性への一貫した探求という過程
において、違いが出てくる。

グノーシスは書籍には書かれていない。書籍には、そのきっかけが
書かれている。グノーシスは、自分が内面において、理性の根拠に
立って、問い続けて行くことである。超越的な問いを、理性で尋ね
て行くことで、理性の答えは出てこない。しかし、自己の出自、自
己の本来のありよう、本来の故郷に疑問を抱いて、理性で尋ねて行
く限り、それはグノーシスの問いになる。

自分で尋ねて行くのがグノーシスである。とはいっても、様々な意
見や考え方、世界観や価値観、宗教、死生観について、学び、他者
の考えるところを知ることは、むしろグノーシスの道の過程である。

何でも尋ね、学び、取り入れ、なお尋ねて行くことがグノーシスに
なる。グノーシスには、実は決まった教義がない。尋ねる姿勢が、
グノーシスである。グノーシスは「不可知論ではない」。理性では
分からないことを尋ねて行くが、「光」を求めて尋ねて行くのであ
り、「光の存在」は、真実である。「真実」は「事実」とは異なり、
理性的に確認できないが、直観的に知る何かである。そんなものは
ないのかも知れないが、あるかないか、分からないので尋ねて行く
ので、「ない」というのが不可知論なら、グノーシスは不可知論で
はない。

光があるかないか、分からない。「ない」というのは虚無主義であ
り、あるかないか分からないというのは、不可知論である。グノー
シスは、「ある」という期待で尋ねて行く。あるいは、「ないとい
うのは、おかしい」という直覚、感じがあるので、「ある」と期待
する
。これが妄想や妄信と異なるのは、何があるのか、理性的に、
どこまでも尋ねて行くからである。こうして、何かの照明体験を得
て、それをグノーシスだと知っても、その照明体験を理性で考察し
て行く。真のグノーシスではないかも知れない。こういう過程だと、
結局、いつまでたっても、疑問ばかりで、確定的な答えなどないの
で、無意味な空しい思索活動だとも批判できる。

しかし、それは「答え」を理性的具体的に得ることを目標にした場
合に、空しいと思うので、グノーシスとは、実は、このような理性
的な問いの「過程」のことである。問いの果てに、「光」に辿り着
かなくとも、問い続けたという人生の過程は真実である。そして、
この人生の問い続ける過程が、実は「光」である。そうして振り返
ると、グノーシスの問いの過程に入って行ったことは実は、最初か
ら「光」を知っていたからだと云うことになる。

グノーシスというのは、自己とは本来何なのかを問い続ける過程の
ことになる。その結果、奇蹟が起こるのかも知れないし、奇蹟など
どこにも起こらないのかも知れない。しかし、それはグノーシスの
真実にとっては重要な問題ではない。

『新約聖書・福音書』において、イエズスは、「人々は信仰がない
が故に、わたしに証(しるし)を求める」と述べている。この「し
るし」というのは、イエズスが神の子であることを証明する奇蹟の
ことだと云ってもよい。しかし、奇蹟があれば、イエズスは神の子
だと証明されるのか。実は証明にならない。

神であるとか、神の子だとかは、実は超越的な規定である。人間が
有限な存在であれば、いかにして、超越を了解・理解できるのか。
理解できない。しかし、人間自身が、超越性を持つなら、超越的な
崇高性をそのうちに持つなら、理性で超越性を理解できなくとも、
超越性は、ここ、そして、そこにある。

(注:イエズスは「天の国[バシレイアー・テウー]は、そこにあ
る、ここにあるというものではなく、あなたがたのあいだにある」
と述べている。イエズスは、「そこ・ここ」で、具体的な場所を指
示しているので、場所的に天の國がある訳ではなく、人間の関係性、
人の魂の交わりのなかに、天の國はある、と云う意味で、このよう
に述べている。わたしは、超越性は、「ここ、そこにある」と書い
たが、この「そこ、ここ」は、場所ではなく、我々の意識の気づき
の「そこ・ここ」にあるという意味である。「ヴァティカンには、
神の靈の刻印があり、天使の姿がある」というのは場所的な把握で
あるが、「我々の魂の奥底には神の刻印がある」とか、「天使は我
々のこころに宿っている」というのは、場所ではなく、たましいの
ありようの問題である)。

人間に神性が宿っているとは、このような意味である。人間の神性
は、みづから見いだすのであり、気づくのである。誰かが教えてく
れるのではない。教義に書いてあるのでもない。それぞれの人の生
の課題であり、気づき、光を知るのは、その人自身である。グノー
シスを得たと思っても、それが真実のグノーシスか、人は問わねば
ならない。問うことがグノーシスの過程であるから。そうすると、
すべての人がまた尊いとも言えるし、自分が最終の真理を知った賢
者であるというような傲慢にも陥らない。

それぞれの人がグノーシスの道を進むのなら、すべての人に神性が
宿っているのであり、自己が悟りに気づいても、それを尋ねるのが
グノーシスなら、究極の真実はわたしにはない。そうであるが故、
グノーシスは謙虚となる。傲慢にはならない。傲慢は結局、無知を
意味する。自己が無知であると実感する者は無知ではないし、傲慢
でもない。

_ SPH
 
 
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