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Re: デミ嫌い

 投稿者:Miranda  投稿日:2019年12月24日(火)13時20分39秒
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  > No.125[元記事へ]


色色な考えや問いかけについて、深く考える必要があるので、
簡単に、どうであるか、というのは述べにくくなります。
いくつかの問題を眺めてみると:

>霊とはなんなのでしょう。
>肉体がなくても意志と形と音のあるものが霊魂で、
>それが高次元にいったとき光のみになったものが霊なのでしょうか?

>僕は実は親友を白血病で亡くしています。
>その親友が死後四日後に僕にさよならを伝えに来てくれたのです。
>あれを霊魂というのだと思います。
>その体験がなかったら死後の世界を疑い無く信じることは
>難しかったかもしれません。

「霊」とか「魂」とは何かというのは、端的には「分からない」
ということになると思います。ただ、この「分からない」という
のは、「霊」とかは古代人の空想・妄想や錯覚だったということ
ではなく、現在においては、古代以上に問題が大きくなっている。
色色なことが知識として蓄積され確認されてきた為、「何である」
という簡明な説明や定義が難しくなってきたので、「分からない」
というのが、誠実な知的態度であると思っています。

「自己を自覚する意識の存在」は何なのか、というのも、幻想だ
と云う言説がある他方で、もっと深度のある実在や認識に係わる
真に重要な問題であるだろうと思う。

「死者の霊」がヴィジョン(幻像)に現れるというのは、その現
れた「死者」が、「死者の霊」なのか、あるいは別の現象なのか、
これも判断が難しくなっている。

死者の霊というのは、自己の意識や魂のなかにある、誰かの存在
イメージ像が、顕在的な意識の表層に現れてきたものだというの
が、もっとも無難な妥当な考えだと思う。

11月のはじめに、ある方が亡くなられたが、三週間ほどして、
非常に印象的な夢で、その方が現れた。ただ、その方は、亡くな
られた後、幾度か夢のなかに現れていた(夢をみていた)と思う
ので、夢に登場するのは、不思議でも何でもない。
カール・ユングの『自伝』の終わりの方の「死後の生」という章
を見ると、夢において死者の霊が登場したとか、覚醒した意識で
のヴィジョンで、死者が登場した。あるいは、ヴィジョンにおい
て、ある親しい人が、この世を去る別れを告げに来たというよう
な記述が色色とあります。

わたしは、それらは、個人の魂のなかの他者の霊・魂の印象の顕
現だと解釈するのが、もっとも無難だと考えます。ただ、この解
釈は、「わたしの魂とは何か」という問題があるのです。「わた
しの魂」というのは、「わたしの」魂なのか、それとも、宇宙の
魂・霊が、わたしという自覚意識の構造枠を通じて、現れている
のが「わたしの魂」なのではないか、という考えも成り立つ。

そうすると、「死者の霊」とは、わたしの魂の記憶にある像が顕
現しているという理解は、「わたし個人の魂=心の現象」という
限定された解釈ではなく、「わたしの心の現象」の背景に、宇宙
の霊や魂があるということになり、「個人の心の現象」というよ
うに単純に考えることもできない。
元々、「わたしの魂」は、宇宙の魂、あるいは、別の霊魂のわた
しを通じた現れであると言うのは、古代からそのような解釈はあ
るのであり、特に、現代において顕著となった考えではないが、
意識や心の働きが、物質の構造体と見なされる「大脳の生理的な
機構」と非常に密接な関係を持つことが、分かってきている現代
であるから、逆に、このような宇宙的な意識・霊の個人を通じて
の顕現という考え方は、今日的な知識を背景として、より深く意
味を表してきた、というのが、わたし個人の考えです。ただ、ど
うも大脳生理学や人間意識の研究を行っていると称している人た
ちは、大脳の物質現象に、意識や霊の現象は還元できるというよ
うな考えを持っているように思える。

意識とは何か、というのは、実際は、ますます分からない何かに
なっているというか、知見が増えれば増えるだけ、分からないこ
とがますます増えてきていると思える。

精神の現象は、物質大脳の神経生理学的な現象には還元できない
と思う。しかし、だからと云って、超越的な霊の世界が、単純に
肯定できる訳でもない。霊の世界があるとして、それは何なのか、
こちらの問題の方も、きわめて難しい話になっていると思う。

人間の思考力では分からない、ということは、人間の思考力を超
えた、独断的な結論が有効だという意味ではないのです。「霊と
は何か」古代の人はより平易な理解を持っていて、それが何を指
すのか、現代人よりも、よく分かっていたというのは、古代の人
の方が知恵があったという意味ではなく、現在においては、古代
の人が知っていたことより遙かに多くの知識や知恵が知られてい
るため、あまりにも色色な可能性が考えられるので、分からない
ということが、より強く自覚されるということです。

人は知識が増えると、段々とものごとが分からなくなってくる。
この状態では不安であるというので、知識を捨てて、より単純な
独断に帰ればよいとはならない。

どれだけ考えても、明晰な答えはないので、考えることは無意味
であるとか、無駄であるとはならない。考えることや問いかけを
やめれば、真実が見えてくるかというと、そういうことはない。
違った方向や方法で考え、問いかけを試みるというのは、ありえ
るが、考えをやめれば、それだけのことで、答えがある訳ではな
い。

仏教の「禅」の考え方に、言葉による思考では、真実は把握でき
ない。思考を脱して、直観の真実開示を待つことが、真の知恵へ
の道だという「考え」があるが、これは、論理的な思考や問いか
けをやめると真理が見えてくると云うのではなく、別の方向から
問いかけてみる、という「視野転換」の問いかけの方法だと思い
ます。
仏教の哲学でも、キリスト教の神学でも、人間の理性の限界が説
かれているが、直観は、理性による反省を経なければ、妄想にし
か辿り着かないという真実もあると思う。妄想なのか、真実の洞
察なのか、どこに境界があるのか、定かではない。定かではない
というのが、真実だと思う。トマス・アクィナスの「至福直観」
は、この世にあって生きている人間が、そのような「真実直観」
を持つことができるという訳ではない。全能の神が存在するとし
て、神の直観に部分的にでも与れるなら、存在の謎や真実も、ま
た明晰に開示されるだろうと云うことで、生きて、この有限の思
考力や、有限の直観の次元にいる人間が、神の直観真実を語って
も、その内容は、神の真実直観ではない。

>陶芸家が無になって作品づくりに没頭している無我の境地と、
>達磨の無我の境地とは似て非なるものであるように、
>違法薬物のサトリとグノーシスの覚りとはまったくの別物だと思います。

覚醒剤やLSDによる、精神感じにおける神秘体験や真実直観体
験に言及しているのは、それらは「別のことのように思える」し
かし、何が別なのか、何が異なるのか、これ自体が、明確に分か
るものではないから、強調的な例示として述べているのです。

Aという人が、例えば、禅の修行を三十年間続けて、ある境位に
達した、つまりある真実直観を得た。Bという人が、禅の修行を
三十二年間続けて、やはりある境位に達し、ある真実直観を得た。
ところが、AとBで、話し合う、あるいは論じあうと、その真実
直観の内容が異なっていて、互いに相手の直観は妥当でないよう
に思える。AとBで、互いの境位について、それぞれに悟りある
いは、直観を得たと云うことで、納得が行くならそれは問題とし
て表に出てこない。しかし、違っている場合、互いに認められな
い場合、あるいは一方が他方を認めない場合、どちらの到達境位
が「ただしいのか」という問題になってくる。

「死後に人はどうなるのか」様々な考えがあると列挙したと思う
のですが、ではどれが妥当なのか、どれも、それなりに妥当なの
か、どう考えればよいのか、よく分からない。

もう一度繰り返すと、

>陶芸家が無になって作品づくりに没頭している無我の境地と、
>達磨の無我の境地とは似て非なるものであるように、
>違法薬物のサトリとグノーシスの覚りとはまったくの別物だと思います。

「まったくの別物」だというのは、その通りでしょう。しかし、
どちらも「精神の現象・意識の現象」であるのも事実であり、こ
ちらが、「真実の体験」で、あちらは「偶然の錯覚体験」である
という判断は、何によって裏付けられるのか。

無数の可能な解釈があるが故に、LSD幻覚体験で、悟りが開け
ると云っているのではなく、LSDの幻覚体験は、ただの幻覚で
真実の悟りではないというのは、誰が判断できるのか、何を根拠
に判断できるのか、これは自明なようで、自明ではないと述べて
います。
自明でないということは、LSD幻覚体験で、悟りが開けると述
べているのではないのです。

問いかける主体としての理性自我は、無限の懐疑と、無限の真実
可能性のなかで、宙吊りになっている。この状態は、「分からな
い」という状態であるが、それは考え・問いかけることを放棄し
た状態とは別の状態である。

貴君が、プレーローマの真実や、智恵=愛を直観したというのな
ら、それは、その直観の深さに応じて真実であろう。それを尊重
はするが、しかし、究極的な真実は、主観的な直観にはない以上、
別の直観も、尊重せねばならない。できるなら、互いの真実直観
あるいは、問いかけのヴィジョンに共通性があることが望ましい
が、共通性があっても、それが最終の真実とは言えないし、問い
かけは、どこまでも続いていると云うことが真実であろうという
ことになる。

以下の話はどこまでが本当か知らないが、あることを教えてくれ
る。神秘主義思想家の教師グルジエフの臨終において、同じく、
神秘主義思想の探求者であるウスペンスキーは、真実を知ってい
るなら、死ぬ前に教えろと、グルジエフに迫った。グルジエフは
それに答えないで世を去った。グルジエフは、真理を知っていた
が、ウスペンスキーには臨終においても教えなかったのか。ある
いは、グルジエフは真実を知らなかったので、教えようがなかっ
たのか。これは、どう考えればよいのか。

グルジエフもウスペンスキーも、宇宙の真実探求に生涯をかけた。
彼らはそれぞれに、真実と称する教え、あるいは探求の成果を述
べた。それらは不完全だったのか。(不完全であったからこそ、
ウスペンスキーはグルジエフに問い詰めたのであろうし、不完全
であったからこそ、グルジエフは、生涯、探求を続けたのであろ
うが、なお、その最終的な到達は、彼らだけが知っていることで
あるとも言える)。

釈迦牟尼が、宇宙は無限であるのか、時間は永遠に続くのか、と
いうような超越的・形而上学的問いに対し、答えなかった、いわ
ゆる「無記」を貫いたのは、釈迦牟尼はその答えを持っていなか
ったからなのか。また、あるいは釈迦牟尼は答えを知っていたが、
それが人の真実直観や救いにおいては、役に立たないので、答え
なかったのか。ここでも色色な解釈がありえる。

考えるべきこと、話すべきこと、語るべきこと、語り合うべきこ
とは、まだまだ幾らでもあるように思います。わたしは、しかし
「分からない」というのが、率直な所です。

懐疑と真実の無限の可能性のあいだで宙吊りとなっている。これ
は問いかける知の人の宿命であるとも思う。しかし、何かの基盤
において、そこから展望できる、「いまの真実」というのは、何
ほどかの範囲で、語ることができるのではないのか。

例えば、

真理をたずねていくなか、自殺の考えが浮かばないということは、

「思い浮かばない」のではなく、そもそも「自殺」ということを
真剣に考えたことがない人は、真実の探求者と言えるかどうか疑
問だとも言える。思い浮かばないのではなく、出発点に自殺が是
か非かの問いがあり、自殺すれば、問いから抜け出すことができ
るのかも知れないが、問いかけるわたしの理性主体がなくなる。

「わたしは何故あるのか・存在しているのか」と尋ねている者が、
自殺して、それで何が分かるのか。人間は、永遠に生きることを、
自分で決めることはできないが、死ぬことは、自己の判断で可能
なようである(常に可能かどうかは、分からない)。つまり、自
己の意識・精神存在を自覚する者は、自己に何ができるかを考え
るのであり、「自殺できる可能性を持つ自己を意識する」。人間
の存在の特徴として最初に気づくことの一つは、人が死ぬ存在で
あるだろうこと、その死を自己で選べる可能性を持つということ
である。

_ SPH
 
 
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